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朝日新聞連載小説『国宝』『ディス・イズ・ザ・ディ』の毎回ごとの感想と、読んだ本の感想を更新しています。

カテゴリ: 夏目漱石 『門』の感想 

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第91回2016/2/11

 いよいよ座禅の修行が始まったが、それは宗助が期待していたようなものではなかった。
 宗助は、他者に対する責任を強く感じ、その罪の意識から逃れることができずに、苦しんだ末に、この寺へ座禅に来た。それなのに、その心の苦しみに触れるようなものは何も得られそうそうもない。
 
 禅寺での修行ではなくて、他の宗教の門を叩いていたら、宗助が今求めていることに応えてくれたかもしれない。だが、直接的な教えが、不安と悩みを乗り越えるものになるとは限らないと感じる。
 

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第90回2016/2/10

 宗助が訪れた庵には、もう一人の修行者がいた。その男は、修行に来てもう二、三年になるというのに、宗助の目には次のように映っている。

彼は剽軽な羅漢のような顔をしている気楽そうな男

 宗助は、当時の世間一般の人々に比べれば、静かでつましく寂しい生活をしている。そんな宗助にとってさえ、修行に来ている人たちは、より静かで、世間の考えから離れた生活ぶりをしていると、感じている。
 しかし、宜道や他の修行者を尊敬して、自分もあのようになりたいとは、思っていないようだ。
 また、寺の周囲の「幽静な趣」は感じても、それで心が休まるとは感じていない。

 心の救いを求めて寺へ来たのに、その場の雰囲気と修行者の様子を客観的に見ているところが、非常におもしろい。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第89回2016/2/9

 宗助が役所勤めを休んでまで、座禅に出かけるには相当の決心がいったと思う。そうしなければ居たたまれない心境だったことが改めて分かる。
 それと同時に自己にとって最大の苦しい心境を、乗り越えようとしていることも分かる。その乗り越える道は、何かにすがることで救われようとするのではなく、自身を変えようとしているのだと感じる。


悉く寂寞として錆び果てていた。

 自身の心を自身で変えるために訪れた寺は、寂しく閑散としたものだった。
 だが、紹介の手紙にあった宜道という若い僧は、温かく宗助を迎え入れている。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第88回2016/2/5

 宗助は、苦しくて逃げ回っているように見える。
 だが、責任転嫁は一切しない。自分を不幸だと一言も嘆かない。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第87回2016/2/4

 宗助は一人で酒を飲んでも気持ちは紛れない。家で御米や小六に、自分の気持ちを打ち明けることすらできない。

 家父長制に縛られて「家」を守ることに精力を費やし、結婚は親が決めた通りにして、職場では出世を目指し、いつも世間の目を意識して生きる人生が、明治時代には正しいとされていた。しかし、宗助は、そのような生き方では、どこにも自分の真の居場所を見いだせない人だと思う。
 「家」を捨てて、愛する人と結婚し、職場では目立たぬようにして、世間の目を逃れて暮らしてきたのが、宗助であった。その宗助が、居場所がないと感じ始めた。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第86回2016/2/3

 もしも私が宗助が感じるような苦しい境地に立たされたらどうするであろうか。
 宗教へ救いを求めることは考えづらい。心理療法や精神科に頼ることは考えられる。そして、経験はないが座禅も考えるであろう。
 日本人が心の救いを求める場の一つとして、現代でも座禅の存在はあると思う。

 

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第85回2016/2/2

 宗助は、安井の「堕落」を想像して、その責任を一人で背負った。
 しかし、安井が実際にどんな人物になったかを知ってはいない。それどころか、確かめたいという気持ちはあるが、それを行動に移すことをしない。
 結局、仕事の帰りに酒を飲みに行くことに逃げ場を求めた。
 そんな宗助を情けない人だと感じるよりは、責任を重く感じている人だと思う。御米への愛情は何よりも大切だった。だからといって、御米を奪うことで傷つけてしまった安井への責任から逃れようとしないのが、宗助なのだ。
 情けない人ではなくて、強靭な精神を持つ人なのかもしれない。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第84回2016/2/1

 職場では仕事が全く手に付かなかった。家に戻っても、昨夜のように寝てしまうこともできなかった。いつものように家で過ごすこともできなくて、御米を誘って寄席へ出かけた。そこでも気晴らしをすることなどできなかった。

 宗助は、この世で唯一心を通じている御米にさえ、己の気持ちを話すことができない。
 いかに宗助が動揺し、救いのない境地に立たされているかが伝わってくる。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第83回2016/1/29

こう談話の迹を辿れば辿るほど、偶然の度はあまりに甚だしかった。

 不思議な力をもつ小説だ。
 宗助が感じるように、偶然の出来事によって筋が展開する。それなのに、この展開に不自然さを感じない。
 また、御米と安井の関係が相変わらずはっきりとは示されていないのに、なぜか、宗助と安井と御米の相互の心情は了解できる。
 ここに描かれているのは、あくまでも登場人物のことだけであり、明治時代のことだけである。それなのに、この主人公たちの姿を通して、もっと普遍的な人の生き方を描いているという気がしてくる。また、取り上げられているテーマは、明治時代を超えて訴えかけてくる。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第82回2016/1/28

 宗助と安井と御米の関係が、いかに発展していかなる結末にたどり着いたかを、推測することができる。ただ、それは読者の推測に任されている。または、この男女三人の関係の機微は、『それから』に描かれているととらえることもできる。
 いずれにしても、この男女の事はこの回で描かれているだけのようだ。当時としては許されることのない男女の愛憎の顛末自体が、『門』の主眼ではないことがわかる。


彼らは安井を半途で退学させ、郷里へ帰らせ、病気に罹らせ、もしくは満洲へ駆り遣った罪に対して、如何に悔恨の苦しみを重ねても、どうする事も出来ない地位に立っていたからである。

 宗助と御米は、信仰へ救いを求めることはしなかった。文芸や哲学にも縁がなかった。しかし、二人は「罪」を感じ、「悔恨の苦しみ」を持ち続けていたことが、ひしひしと伝わる。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第81回2016/1/27

 「安井」?あの安井か?

 宗助にしては珍しく親しく口をきける人が出現したというのに、その人からこの名前が出て来るとは、皮肉な巡り合わせが準備されていた。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第80回2016/1/26

 日本国内では飽き足らず、活躍の場を海外に求める人はいつの時代にもいる。
 坂井の弟の場合は、事業を起こし金儲けをすることだけが目的のようだ。しかも、先ず渡った所は満州であった。当時の事情を十分に承知してはいないが、当時の国策とそれに煽られた風潮にのった行動のように感じられる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第79回2016/1/25

 女中のことが出てくると、この作品が百五年前のものであったことを思い出す。書生のことも同じだ。
 女中という職種は、昭和時代にもあった。しかし、それは下級官吏が雇えるようなものではなかった。書生は言葉だけが残っていたが、世間一般では馴染みの薄いものになっていた。
 百五年という年月は、倫理観だけでなく、職種や産業など社会的な構造を大きく変化させていた。そして、変化したものと、変化しないものの双方がこの小説には描かれている。

 小六にとって、この書生のことは悪い話ではなさそうだ。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第78回2016/1/22

 宗助と坂井は、あらゆる点で逆の人物として描かれているように見えた。住まいが崖の上と下であるところからもそれがわかる。しかし、崖の上下ではあるが、二軒の家は目と鼻の先であり地続きである。
 この回ではじめて、世の煩わしさを避けたいと思う坂井の一面が描かれる。一方の宗助は根っからの人嫌いではなかった。

 世間的には成功して金を得た人物と、世間から見捨てられて貧乏な人物とは、大違いのように見えて紙一重の面があると思わせられる。
 これは、一人の人間の生き方に止まらないことなのかもしれない。例えば、国家の発展と衰退も紙一重のものなのだと、漱石は看破しているような気がする。

朝日新聞連載小説『門』夏目漱石第77回2016/1/21

 明治の東京は、現代とは違った意味で盛んに発展しつつある都市であったろう。宗助が住む借家は、そのように変化し賑やかになっていく東京の中で見捨てられた一隅のようだ。宗助夫婦と小六には、希望も発展も見えて来ない。
 だが、煩わしさもあくせくしたところもない。世間体ばかりを気にかけて背伸びをしている様子はない。親兄弟、親戚に気を遣う心配もない。金儲けや出世のために動き回ったり、いらいらすることもない。
 愛する人と静かに時を過ごしているだけの生活だ。それだけになんでもないような会話に笑いが出るのだと感じる。


 家の束縛から逃れ、個人の心情に従って愛する人と結婚する。
 金儲けや出世を考えずに個人の生活を大切にする。
 旧来の習わしや為政者にとって都合のよい道徳から逃れた生活は、明るく希望に満ちたものに描かれることが多い。しかし、漱石はそうは描いていない。
 漱石の見方が正しかったかどうかは、百五年後の今、答が出てきていると思う。

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