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朝日新聞連載小説『国宝』『ディス・イズ・ザ・ディ』の毎回ごとの感想と、読んだ本の感想を更新しています。

カテゴリ: 新聞連載小説・夏目漱石・『吾輩は猫である』の感想

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第50回2016/6/21

 金田夫人の寒月についての調べはなかなか念が入っている。学者としての仕事ぶりだけでなく、今度は人柄というか、書いたものを見せてほしいと言った。苦紗弥も迷亭もおもしろがって、寒月からの絵はがきを出してくるが、そんなに簡単に見せてもよいものだろうか、疑問に思う。
 人柄や趣味についての良し悪しの基準も、金田夫人と迷亭とは大いに違っているので、ここでも話は食い違う。
 今までは、親しいといいながら苦紗弥と迷亭とは感覚の違う人物に見えていたが、金田夫人のような人が現れると、苦紗弥と迷亭は同じ価値観をもっていることがよくわかる。
 その証拠に、金田夫人が帰ると、二人は夫人に対する不満を相互に吐き出し、おおいに盛り上がっている。

 金田夫人のやり口の下品さや、世間体だけに縛られた感覚の浅薄なことは明らかだ。ところが、そこをいくら攻撃しても、まったく反省がない。
 むしろ、世間体や金の力に重きを置かない人間が、実際の生活では無力であることが描かれている。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第49回2016/6/17

 金田夫人の用向きがはっきりした。
 娘の結婚相手は親が決める。そのためには、どんな方法でもよいから結婚相手の候補になる人物のことを調べ上げる。調べる内容は、寒月の場合のように学者であれば、博士になれるかどうかをなによりも重要視する。なぜ博士がよいかというと、世間体がよく収入もあるからだ。
 苦紗弥と迷亭は、そんな金田夫人のことを快く思ってはいないが、とにかく話の調子を合わせ、なんとか自分たちの話題に引き込もうとするが、それは成功しない。
 苦紗弥は、うわべだけで博士をありがたがることの愚かしさを示そうとするが、金田夫人の方は一向に自分の愚かしさに気づかない。
 
 博士という肩書が大切なのではなく、その人の研究の内容が大切だという当たり前のことが、なかなか通用しない。そんな世間の実態が金田夫人を通して描かれている。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第48回2016/6/16

 金田夫人のやり方はあきれたものだ。さらに、それを隠すこともせずに自慢げにベラベラしゃべるのにもあきれる。金の力で人を動かすことに慣れるとこうなるものだ。
 人を雇って他人の家の内を探り、金を払って人の心を確かめようとする。下劣な行為だが、それはよくあることだし、誰でもことの大小を問わなければ陥りがちな心境なのだ。

 金田夫人を品性下劣な憎むべき人間とけなすのは簡単だ。しかし、知人や友人同士の間でも、会社のような組織間でも、国家間でもこういう行為は行われ続けている。こういうことがなくならないのは、大多数の人間が本来持っているものに由来するのであろうか。それとも、近現代の社会構造に由来するのであろうか。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第47回2016/6/15

 寒月の以前の話は事実以外が多いものと思っていたが、そうでもないらしい。それにしても、金田夫人は何をどう勘違いしているのであろうか。
 それとも、勘違いは寒月の方なのか。それとも、話を聞いただけの迷亭と苦紗弥の方なのか。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第46回2016/6/14

 苦紗弥のこういう態度は、痛快だ。世間は、金田夫人が感じているような反応をするのが常だが、苦紗弥のような人物もいるのだ。
 ただし、苦紗弥が地位や金の有無で人を見ないかというと、そうではないと描かれている。苦紗弥の生活では実業家に全く縁がないので、金田の名前を聞いてもちっともありがたがらないというだけだとされている。
 その通りだとしても、地位や金にものを言わせて、横柄な態度を通す金田夫人に対する苦紗弥の態度はやはり痛快だ。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第45回2016/6/10

 迷亭の話をはじめてまじめに聞いた。東風のドイツ人にドイツ語で話しかけられたエピソードだ。
 他国語を少しかじったことがあるというのが危ない。例えば、英語に興味があるというだけで、それを使ってみようとするのが危ない。
 できなくても使わなくては他国語をものにすることはできないであろう。(私は、他国語をものにしたことはないので、仮定でしか言えないが)
 自分の語学力はまったくの初歩であると自覚していれば、東風が陥ったようなことにはならないであろうが、少しでも通じると、なんとかなると思ってしまう。

 それにしても、苦紗弥は教師だし、寒月はギリシャ語を読む、東風は例え初歩であろうとドイツ語をしゃべる。この三人の語学力は、相当のものと感じる。迷亭の語学力は分からないが、雑学の知識は豊富だ。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第44回2016/6/9

 寒月の演説は、本当に行われたものと書かれている。苦紗弥と迷亭をだますための架空の話ではなかった。
 苦紗弥と迷亭は、寒月の話す内容の枝葉の部分だけをおもしろがっている。
 私も、寒月の演説の内容で、興味を感ずるとすれば、この二人と変わらない。

 「吾輩」も、寒月の話の内容についてはよいとも悪いともしていない。ただ、聞き手が話の本筋を理解しないのにいろいろと注文をつけることに、批判的だ。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第43回2016/6/8

 寒月の話の内容は、真面目なものなのか、それとも迷亭の話のように最初から聞く人を欺こうとするのもなのか、判然としない。
 方程式が出てくる「演説の首脳」の部分は、まったくのでたらめとも思えない。
 しかし、読者としては、苦紗弥、迷亭と同様に正しいともでたらめとも判別はできない。もしも、寒月の話す方程式がその当時の定理を踏まえたものだとしても、力学の説明としてこの例を出すことがふさわしいのであろうか。
 苦紗弥と迷亭の二人が、ギリシャ語も方程式も理解しないで、注文ばかりつけていることは、はっきりとしている。

 なんだか明治時代の小説の中のこれらの人物に同化してしまいそうだ。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第42回2016/6/7

 苦紗弥、迷亭、寒月の会話が、演説練習に伴って続く。
 この場面では、「吾輩」の批評が少ない。不思議なもので、「吾輩」からの批評が少なくなると、この三人の会話への興味が減ってしまう。

主人は無言のまま吾輩の頭を撫でる。この時のみは非常に丁寧な撫で方であった。

 このような猫からの観察がもしなければ、この会話も違ったものに感じるだろう。いかに会話の内容がおもしろそうでも、読者の興味を持続させることはできないように思う。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第41回2016/6/3

 迷亭の相手を煙にまく会話術も、現実的に物事を受け取る細君には通用しないようだ。教師や学者が日常の生活で、他者の目にはどう映っているかが分かる。
 書籍の大切さを理解できない人々がいるから困る、といった考え方を説いているのではない。また、自分たちの高尚さをひけらかしてもいない。それどころか、現実的な生活を大切にする一般の人々から見れば、学問や文芸を尊ぶ人がいかに困った存在であるかが描かれていると思う。
 この小説は、ユーモアに包まれてはいるが、思想の目指すところと現実の生活がなかなか相容れないものであることを示していると思う。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第40回2016/6/2

 苦紗弥のことは、「吾輩」が一番よく観察し、「吾輩」の視点から描かれていることが多い。この回では、細君から見た苦紗弥が描かれている。さらに、雑誌の評での苦紗弥のことも出てくる。
 「吾輩」の視点からは、苦紗弥の言動は誇張されている感じがするが、細君の視点からはそういう誇張があまり感じられない。苦紗弥の普段の言動が誇張なしに伝わってくる。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第38回2016/5/31

 細君からの難題を、苦紗弥はあっけなく片付けてしまった。苦紗弥を、さすがだと思う。彼は、言い訳がうまいわけではない。また、細君の言葉をいい加減に聞いているようで、そうではないと思う。つまるところ、苦紗弥は、金銭にこだわらず、収入の少ないこともあきらめているのだと思う。

 苦紗弥と迷亭の会話を、ばからしいと感じながらおもしろがっていた。だが、だんだんに愛すべきものと思えてきた。
 センスのよい気の利いた会話とはなんだろうか。役に立つまじめな会話とはなんだろうか。そんなものがこの世に存在するのだろうか。存在するとは思うが、そのような有益な会話が日常的になされると思えない。
 そうだとすると、苦紗弥と迷亭の会話の価値が変わってくると思う。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第37回2016/5/30

 吾輩にとっては、三毛子や黒よりも、迷亭、寒月の方が観察のしがいがあるということだ。そして、最も興味深い観察対象は、「主人」苦紗弥なのだろう。
 その主人に細君からとんでもない難題が持ち込まれそうだ。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第36回2016/5/27

 珍しく、「吾輩」が「主人」を褒めている。

(略)その活眼に対して敬服の意を表するに躊躇しないつもりである。

 私も、苦紗弥を優れた人物だと思うようになった。どんな点でそう思うかと尋ねられると、まだうまく答えられないが、その静かな生き方と他人の称賛を浴びようとしない所は好きになってきた。まさに、「活眼」の人物であると感じる。


 三毛子の家の主人と下女のやり取りを読むと、実に人の実相を描いていると思う。
 人は、誰かを悪者にしないと安心して生きていけない所がある。私の場合も、周囲に誰か「悪人」を発見すると途端に、思考が活気づく。その「悪人」を非難する意見に同調する人が現れると、会話が盛り上がる。周囲に非難すべき「悪人」を発見できないときは、報道されるニュースの中から「悪人」を見つけ、関係もないのに怒る。
 一方では、何かのきっかけで、自分が「悪人」役にされると、非常に落ち込む。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第35回2016/5/26

人間というものは時間を潰すために強いて口を運動させて、可笑しくもない事を笑ったり、面白くもない事を嬉しがったりする外に能のない者だと思った。

 ここまでは、「吾輩」の人間全般に対する批評だ。この後に、「主人」苦紗弥と迷亭、寒月への批評が続く。その内容は次のようなものだ。
 苦紗弥は、表面では世の中のことに超然としているように見える。だが、彼にも欲があり、、迷亭や寒月に競争心をもっている。
 苦紗弥も迷亭も寒月も中身は俗物だ。だが、その言語動作が、世間一般の物知りぶる人々と違って、型にはまったものでない所が救いになっている。
 このような「吾輩」の批評を読むと、この三人、特に苦紗弥という人物に関心が湧き、親近感を感じてくる。
 以前にこの小説を読んだときは、この三人に共感したことなどなかったのに不思議だ。

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