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朝日新聞連載小説『国宝』『ディス・イズ・ザ・ディ』の毎回ごとの感想と、読んだ本の感想を更新しています。

カテゴリ: 新聞連載小説・夏目漱石・『吾輩は猫である』の感想

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第34回2016/5/25

 苦紗弥の話は、迷亭と寒月のものとは違っていた。話の落ちがない。
 それだけに、二人の嘘の話ではなく、人間の本質を描いている逸話と受け取れる。
 
 妻が楽しみにしていることを実現させるのは、全く妥当なことだ。大切に思っている妻のたまの希望を叶えてやりたいと頭では理解している。
 しかし、なんとなく気が進まない。気の進まない外出を妻から催促されると、ますます行きたくなってしまう。それでは遺憾と、無理矢理に行こうとすると、今度は体がいうことを聞かない。
 苦紗弥は、そういう経験を話していると思う。

人は、わがままな存在だ。人のわがままを、理屈で正そうとしても抑え込むことはできない。道徳と理性で、自己のわがままな感情を抑えれば、身体が不調を訴え始める。それを、描いていると思う。
 現代では、過剰なストレスがかかると精神面だけにとどまらず、身体的な不調をきたすことは一般にも知られている。しかし、そう考えられるようになったのは、最近であろう。
 精神的なストレスが身体的な不調を起こす仕組みは複雑な要素が絡み合っていて、現代でもまだ解明されていないことが多いようだ。
 明治時代の漱石が、精神と身体の関係にも注目していると思う。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第33回2016/5/24

 前回と今回は、連載としてのこの小説の特徴が出ていると思う。以前に読んでいるのだが、この辺りのことは忘れていて、次回を待ち遠しく感じる。
 短編小説とするなら苦紗弥の話は、私小説の雰囲気だ。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第32回2016/5/23

 寒月の話は、なんともたわいのない結末だった。
 迷亭の場合は、話のはじめから嘘が見えていたが、寒月の場合は話の前半は真実味があった。
 苦沙弥の話は後半に入っても真実味がある。
 この三人の話をそれぞれ短編小説とするなら、小説創作の方法論の題材になりそうだ。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第31回2016/5/20

 寒月の話は、ずいぶんと真に迫って聞こえる。だが、怪談じみていてとても経験談とは思われない。
 迷亭の話との違いはなんだろうか。自分の経験として語っている所は同じだし、知人が登場する所も、場所がらも、そして、話の核心も共通している。
 これは、この話の結末を聞いてみなければ、違いが見えてこないようだ。
 川に飛び込んだ当人が無事であったことだけは、確かなのだが。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第30回2016/5/19

 迷亭の話は、なんともあきれた作り話だ。しかし、全ての物語の根本は作り話だということもできよう。
 迷亭のうそを承知していながら、寒月も話を作るようだ。

 猫はうそをつかない。
 なぜか。
 猫は言葉を使わないから。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第29回2016/5/18

 「主人」である苦紗弥と美学者の迷亭は、いい加減なことばかりして、なんの役にも立たないことをしていると描かれる。その描かれ方は徹底している。
 これが、作中の登場人物がそう感じているのであれば、この二人に対して、読者に嫌悪感しか持たせないであろう。ところが、なにせそういう見方をしているのは、猫なのである。
 そして、この猫の観察の仕方は、単に皮肉屋や笑いを狙ったものではない。

実は行徳の俎板という語を主人は解さないのであるが、さすが永年教師をして誤魔化しつけているものだから、こんな時には教場の経験を社交上にも応用するのである。

 この観察は、当たっている。そして、これは教師だけではない。特に、様々な専門職をしている人にも当てはまると思う。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第28回2016/5/17

 教師とその門下生、教師とその友人の学者、三人が三人とも、嘘とその嘘を見破っているようないないような会話が続く。そして、当人たちはどうも自分が一等賢いと思っているようだ。
 「吾輩」は、そんな教養人たちを冷ややかに見つめている。
 これだけ、「吾輩」の視点がはっきりとしてくると、「吾輩」が人間を観察している態度を、表現通りに冷笑しているだけとは受け取れなくなる。嘲笑、冷笑の土台には、人間に対する強い好奇心が働いていそうだ。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第27回2016/5/13

 人間同士は、互いを見るときは、表向きを見る。人には、裏側があると知っていても、やはり表向きで判断してしまう。対話をするときは、相手に自分の話がどう受け取られかを考えてから話す。
 人間は、猫に対して自分の良い所だけを見せようとは思わない。また、猫がいるからといって言葉に気をつけようともしない。 
 「吾輩」は、いつも人間の裏側、つまり表面を繕っていない本質を見ている。そして、建て前ではない本音の話を聞いている。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第26回2016/5/12

 明治時代には、「三毛子」のように大切にされる飼い猫は特別だったことが分かる。明治どころか、昭和時代も現代のペット事情とは大いに違う。
 漱石は、現代のペット事情まで見抜いていたのかと思わせられる。猫の飼い方というだけでなく、飼い猫や飼い犬の扱われ方を見れば、その時代の人間の生き方が見えてくるのかもしれない。
 我が家でも、家の「吾輩」をせっせと病院に連れて行っている。その結果、猫の寿命はどんどん延びる。果たして、猫にとって幸せなことなのだろうか。安楽な環境で暮らせることは、猫にとっても歓迎すべきことなのだろうが、猫本来の身体能力を十分に発揮できる機会がないのは、かわいそうなことでもあると思う。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第25回2016/5/11

 「トチメンボー」のことが「迷亭」の人をだますカラクリだと分かると、手紙全体が信用のならないものと、「主人」は気づいている。ところが、大半はふざけた嘘ばかりだと思っているのに、自分の胃病に効果があるかもしれないという件になると、思わず興味を引かれている。
 これも、よくある人間の心理だと感じた。
 現代の世の中に溢れている健康によいとされる商品の全てを信用していないのに、自分の苦痛を治してくれそうなもののことを聞かされると、信じたくなってしまう。こういう心理も、胃病に悩む「主人」の心理と重なるのであろう。

朝日新聞連載小説『吾輩は猫である』夏目漱石第24回2016/5/10

 「迷亭」からの手紙は、ことごとくふざけた内容として、「主人」に読まれている。しかし、それは、「東風」の話を聞いた後なので、そう分かるだけだろう。
 この手紙の「トチメンボー」が虚言であることを知らされなければ、「主人」も読者も、虚と実を見分けることは難しいと思う。 

夏目漱石『吾輩は猫である』第23回朝日新聞連載小説2016/5/10

 「吾輩」という存在がなければ、相当に攻撃的な意見の文章になりそうだ。しかも、ここで取り上げられている「朗読の会」に類似の文学的な集まりは、当時実際にあったのではないかと思う。


責任さえないという事が分かっていれば謀反の連判状へでも名を書き入れますという顔付をする。

 「東風」なる人は、いわば善良な小市民であり、しかも文芸好きな人物である。
 「主人」は、社会に積極的に害をなすような人では決してない一教師である。しかし、その精神構造は、上のようなものであると、「吾輩」は見抜いている。
 人間の一面を誇張して描いているのであれば、笑って済ませられる。だが、この作品は、人間の一面だけではなくて、近代以降の人間の本質を描いていると感じられ、笑ってばかりもいられない。

夏目漱石『吾輩は猫である』第22回朝日新聞連載小説2016/5/5

 この回も、知ったかぶり、博学ぶり、中途半端な知識や教養が、批判されている。
 漱石は、よほど中途半端な知識や教養が嫌いだったと感じる。嫌いどころか、それが、人間社会の弊害の元凶と見定めているかのようだ。
 ここまで、徹底して、「吾輩」という視点を借りながら批判されると、私も感想など書きづらくなる。私の小説好きと、感想に表れる文学的な知識は、「吾輩」が冷たい眼で見ている中途半端でいい加減な知識、そのものだ。

夏目漱石『吾輩は猫である』第21回朝日新聞連載小説2016/5/4

 「客」が、「先生」とのエピソードを語る。それを、「主人」が聞いている。その「客」「先生」「主人」の言動を、「吾輩」が聞き、その全てを批判的に観察している。

 他人をだましておもしろがる「先生」のやり口は感心できない。「先生」のやり口の片棒を担いでいる「客」は、他人をだましている主犯格ではないが、無責任である。そして、その二人と「ボイ」の話をおもしろがって聞いているだけの「主人」は、より無責任だと思う。

 このたわいもないようなエピソードは、恐い内容を含んでいると感じる。
 「客」は自分のことは棚に上げて、「先生」と「先生」にだまされた「ボイ」を批判的に見ている。「主人」は、自分もだまされたことがあることを自覚しながら「先生」と「客」と「ボイ」の行動を愚かなものして、「アハハハ(略)」と笑い飛ばしている。

 これは、現代の世の中の事件に対する私などの立場そのものだ。例えば、大規模な詐欺事件の報道を耳にした際に、だました犯人を批判するだけでなく、だまされた被害者を批判的に見てしまう。そして、たいして怒りも同情もせずに、たちまちその事件を忘れてしまう。
 「先生」のような言動は取らないとしても、「ボイ」にも「客」にもなることはある。「主人」と同じ立場にはしょっちゅうなっている。知らないこと分からないことを、知らない分からないと、正直に表明しない精神構造の罪を知らされた思いだ。

夏目漱石『吾輩は猫である』第20回朝日新聞連載小説2016/5/3

 テレビのグルメ番組は好きだ。ドラマやニュースよりは真剣に見る。
 だが、食べ物についての話は、この回で取り上げられているようなことになってしまう例が多い。
 採れたての食材を産地で、生のまま食べて「うまい。あまい。」などと言うのは、結局は珍しいことで、それを毎食は続けはしない。
 行列のできるラーメン屋に、週一で通うのは考えづらい。行きやすくて、行列ができなくて、ごく普通の味のラーメン屋に週一で通うことはある。
 個性的な料理を出すと評判のレストランに行っても、今までの人生の中でどれほどレストランでの食事をしたかを問われれば、比較なぞできるはずもない。

 仁木町にあるケーキ屋のブルーベリータルトが、コンビニなどにある大量生産のものと味が違うのは分かる。グルメ情報は、当てにならないと思いつつも嫌いではない。

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