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朝日新聞連載小説『国宝』『ディス・イズ・ザ・ディ』の毎回ごとの感想と、読んだ本の感想を更新しています。

カテゴリ: 新聞連載小説 吉田修一作 国宝 の感想

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第回2017/8/20
 
 気になり、再登場を心待ちにしていた(206回感想)人物が出て来た。
 竹野、テレビ、こうなるとすぐ、喜久雄のテレビ出演を予想するが、そこにはもう一段仕掛けがあるかもしれない。

 前回の感想で、市駒を取り上げたが、春江と市駒の共通点に気づく。
①出生や生い立ちについては詳しく語られていないが、貧しい子供時代を送り、中学校卒業するかしないうちから、水商売の世界に身を置いている。
②自分の境遇に悲観をしている様子がない。それどころか、春江は売春をしてでも逞しく生きて行こうとしている。
③喜久雄に直感的に惚れこんでいる。だが、喜久雄と結婚し、家庭を作るという考えはない。
 これらの感覚は、昭和時代の女性の常識的な生き方と正反対だ。

 私は、俊介とともにいなくなった春江については次のように感じている。
 春江は、喜久雄を嫌いになったり、喜久雄から俊介に気持ちが移ったのではない。出奔前後の俊介が、喜久雄よりも、春江を必要としていたから俊介と一緒に身を隠したのだ。俊介の状態が落ち着き、春江も身を隠さなくともよくなれば、気持ちは喜久雄の所へ戻る。
 そして、喜久雄には、愛し愛される女性が何人いても不自然ではないと感じる。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第225回2017/8/19

 喜久雄は、胸の内を誰にも明かしていない。徳次も、喜久雄が男たちに襲われたことや、その翌日の撮影の様子は知らないようだ。
 あの喜久雄が、歌舞伎の舞台に立てないのは、気力を完全に失っているからだ。
 今の喜久雄が、自分の回復の場として思い浮かべているのは市駒との暮らしだ。

 市駒の今までの描かれ方がおもしろい。
①生まれは秋田の貧しい農村。十二の頃から京都の置屋に預けられていた。(80回)
②喜久雄のお茶屋遊びが初めてだと聞き、次のように言っていた。「そやから、喜久雄さんにうちの人生賭けるってことや、なんや知らん、直感や」(90回)
③喜久雄の子を生んだが、芸妓をやめる気はなく、結婚に興味を示さなかった。

 喜久雄は、市駒の所へも、春江の所へも、ある時期を過ぎると頻繫に通わなくなっていたようだ。また、市駒も春江も、そんな喜久雄を責める様子はなかった。

疑問
①娘の綾乃の男勝りぶりが描かれていたが、それは今後に関わって来るのか?
②市駒は、伽羅枕を今でも使っているのか?

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第224回2017/8/18

 撮影が終わっても、撮影中の出来事が悪夢となって、喜久雄にまつわりついていたのであろう。そして、連夜の乱痴気騒ぎで、悪夢から逃れようとしていたと思う。
 ところが、『太陽のカラヴァッジョ』が受賞し、大いに世間を騒がせることとなった。受賞は、喜久雄の演技を評価してのものであったが、喜久雄にとっては喜びは微塵もなく、かえってあの嫌悪すべき撮影現場を思い出させられることになった。なんとかして、忘れてしまいたいことだったのに、否応なく思い出させられ、喜久雄に逃げ場がなくなっている。

略)無粋な徳次でさえ、日に日に喜久雄のなかで何かが壊れていくような、そんな不気味な音を聞いていたのでございます。

 この文から、喜久雄が撮影現場の出来事から逃れられず、その悪夢に苛まれていることを感じる。


 極限状況での辛い経験は、トラウマになったり、PTSDと呼ばれる症状になったりすると聞いている。
 喜久雄の今は、『太陽のカラヴァッジョ』の成功によって、俳優として新しい境地に入った様子は見られない。逆に、『太陽のカラヴァッジョ』に出演したことによる精神的なストレスを、撮影終了後の今も受け続けているように感じる。

 『太陽のカラヴァッジョ』出演の悪夢のような経験が、喜久雄を役者としてさらに成長させることはあるのだろうか?

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第223回2017/8/17

その一
 今回を読む限りは、喜久雄は清田監督の狙い通りに動かされ、否応なしに極限状況の演技を、引き出されたようだ。もし、そうであったなら、喜久雄はその演技を演技として割り切っていないようだ。

その二
 監督という存在のない伝統芸能の世界に打ち込んでいる喜久雄にとって、今回の映画出演は、同じ俳優と言っても、あまりにも違いがあったであろう。二代目半二郎も、喜久雄も映画出演はしていたが、それは、歌舞伎俳優としてのイメージを壊すようなものではなかった。
 『太陽のカラヴァッジョ』では、歌舞伎役者が「一人の人間として丸裸にされる姿」を求められた。本物の歌舞伎役者が、一兵卒となった「歌舞伎役者」を演じなければならなかった。
 喜久雄の立場で想像してみると、それがいかに困難なことであるかを察することができる。
 歌舞伎役者が、極限状態での「歌舞伎役者」を演じるためには、徹頭徹尾自分自身を客観視できる演技力が求められると思う。

その三
 『太陽のカラヴァッジョ』が大ヒットして、喜久雄が歌舞伎でも映画でも大注目される展開になっていくだろうか?
 たとえ、そうなっても喜久雄の心はまだまだ晴れないのではないか。連夜の乱痴気騒ぎは、喜久雄の心が深く傷ついていることの表れだと感じる。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第222回2017/8/16

その一
 歌舞伎役者の血筋にない喜久雄が、三代目半二郎を襲名した。
 これは、とてつもない幸運だった。
 白虎亡き後、喜久雄は歌舞伎の舞台からはじき出された。さらに、莫大な借金を背負った。歌舞伎の舞台で役の付かなくなった喜久雄は、映画出演を決める。その撮影現場で、言うに言われぬ屈辱を味わわされる。
 これは、過酷な悲運の連続だ。
 幸運から悲運、その繰り返しの中で、喜久雄は生きてきた。
 喜久雄が役から降りることはなく、『太陽のカラヴァッジョ』の撮影が終わったのは確かだ。
 喜久雄の闇の時期が終わるのかどうかは、まだ分からない。

その二
 221回で、喜久雄が自分自身を客観視している。これは、今までなかったことだ。喜久雄が役者として新しい境地に入ったと感じる。
 しかし、それが観客に認められて人気に結びつくかどうかは、まだ分からない。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第221回2017/8/15

その一
 はじめて弱音を吐いた。しかも、他人を責めずに、自身を責めている。

その二
 予想がことごとく外れる。理由を考えてみた。 
 216回感想の予想が当たっていれば、物語は、鬼監督風ドラマか、ヤクザ映画風ストーリーになってしまう。
 219回感想の予想①が当たっていれば、物語は青春感動ドラマ風になってしまう。
 そんな展開になりはしないのは、当然だった。

その三
 161回のベッドでの赤城洋子とのやり取りを思い出す。喜久雄は、実生活で男娼のように見られることに強い嫌悪感を持っていると思う。
 過酷な運命に、不平不満や弱音を吐かないが、喧嘩を厭わない喜久雄が、よく知っている男たちの襲撃に抵抗さえしなかった。死ぬほど嫌なことだったはずなのに。

その四
 過酷な状況下、士気の消失した軍隊内では、この出来事は現実と聞く。もし、そこまでを清田監督が狙ったとしたなら、とことん非情な人物だ。
 この小説には、非情な人物は既に他にも登場していた。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第200回2017/8/14

 「明日の撮影予定のシーン」というのは、今の喜久雄の現実と酷似している。もし、今までの撮影で喜久雄の演技がよしとされていたなら、このシーンも役者として演技しただろう。
 喜久雄にとって、演技というものは舞台上で登場人物をきれいに演じることだ、と思う。それが、たとえ汚れ役だとしても、汚れ役をそれらしく演じることしか考えないと思う。
 しかし、清田監督が求めているものは違うと感じる。


 「足音」は、女のような気がする。根拠はないが‥‥女だとすると‥‥幸子、マツ、市駒、春江‥‥
 だが、状況から考えれば、徳次か弁天だろう。

 唐突に思う。なぜ、俊介は戻らないのか?
 喜久雄を憎んでいるからでも、父を恨んでいるからでもないと感じる。だとすると、自分がいない方が丹波屋にとってよいと信じているのだろう。自分がいても、父母のためにならないし、喜久雄のためにもならないと思い込んでいると感じる。
 一方では、この作者の手にかかると、そんな甘いことでは‥‥という気もする。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第219回2017/8/13

 216回感想の予想は外れた。喜久雄はああまでされても、感情を爆発させなかった。

 監督の中でどのような心変わりがあったのか、ふと奸策(かんさく)をめぐらすように眉を動かした監督、最終的にはこの役を喜久雄で行くと言い出したのでございます。(215回)

(略)帝国ホテルでの大々的な製作発表、日本はもとより世界各国から集まった報道陣のカメラのフラッシュに(略)(215回)

 
ここまで来ても、清田監督が喜久雄を役から降ろすことを意図しているとは思えない。また、『太陽のカラヴァッジョ』が喜久雄なしで成功するとも考えられない。
 予想
①喜久雄が自ら役を降りると申し出る。その時に、他の出演者の重田らが自分たちの取り組みの浅さを認め、喜久雄を擁護する。
②喜久雄が役を降りると申し出て、監督がそれを認める。代役探しが始まる。
③喜久雄がカメラの前で、男の素の表情を初めて見せる。それこそが、監督の狙いであり、喜久雄の役者としての新しい魅力がそこに発見される。

 喜久雄は、襲名を辞退してくれという、幸子の申し出を受けたことがあった。この話の流れは、喜久雄が自ら役を降りる展開へと読者を誘っている。


 私は、何かをする前にはそのことをした結果の得と失をよく考えてから行うことを、正しいとしてきた。小説『国宝』は、昭和時代に価値があるとされていたそのような概念を「喜久雄」を通して、次々に覆していると感じる。この局面でもそれが出るか。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第218回2017/8/12

 喜久雄は、今まで理不尽に叱られ、いじめられても不平不満を漏らさなかった。不平不満を言わないだけでなく、反省もしなかったし、弱気にもならなかった。

 喜久雄もさすがにこの理不尽には体ではなんとか抵抗するのですが、心のほうでは、やはり悪いのは自分なのではないかと弱気にもなり、もうここで土下座さえしてしまえば、これまでの悔しさや、かろうじて保っているプライドや、そんな何もかもが吹っ飛んで楽になりそうな気がするのでございます。

 その喜久雄が「弱気になり」、追い詰められている。
 そして、この語り口が興味深い。普通は、理不尽な目に遭えば、心では抵抗しつつも体の方でさっさと謝ってしまえ、となるように思うが、今の喜久雄の場合は違っている。
 喜久雄の体は、悔しさに負けず、理不尽に抵抗をし続けているし、どこかで自分の演技に自信さえ持ち続けているように感じる。

 この清田監督のやり口は、軍隊で上官が下級兵を折檻する方法を思い起こさせる。

 喜久雄に、「我慢できんのやったら、俺がいつでもどついたるし、殺したるわ」と言っていた徳次は、この時はどうしていたんだろうか。

 予想
 ストーリーは、このできごとの決着に詳しくは触れずに、場面や時間が一挙に飛ぶ。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第217回2017/8/11

 第二章第三章に出てきた体育教師尾崎と、この清田監督が重なってくる。尾崎は、終始喜久雄に辛く当たった。思い返してみると、尾崎は喜久雄の素質と人柄を見抜いていたから、あのようにしたのだと感じる。
 清田監督は、何か思う所あって、喜久雄に役をつけた。撮影に入ってからの喜久雄に対する折檻は、誰が見ても理不尽なものだ。これは、何か裏がある。
 一流の歌舞伎役者は、監督も演出家も兼ねた働きができる人だと聞く。その辺に何か関係があるのか?

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第216回2017/8/10

 さすがの喜久雄も、我慢の限界を超えるのではないか。
 舞台を離れた日常でも女ぽっいのではないか、と疑われることを喜久雄は極端に嫌っていた。赤城洋子とのやり取りでもそれが出ていた。演技についての清田監督の折檻には耐えても、役を離れた所で、女ぽっさを揶揄されれば、喜久雄は感情を爆発させると思う。

 予想
①清田監督の喜久雄への折檻は、喜久雄以外の出演陣からより深い演技を引き出すためだった。
②感情を爆発させた喜久雄の刺青と啖呵に、周囲は怖れをなす。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第215回2017/8/9
 
 喜久雄の心情を次のように想像してみた。
 白虎が亡くなってからは、自分の芸は自分で磨かなければならないと思う。その気持ちから、どんな端役であっても、全力で役を勤めた。さらに、舞台裏から大御所の芸を盗もうと一心に他の役者の芸を研究した。
 また、丹波屋を守り、丹波屋の芸の伝統をいつかは俊介に引き継ごうという意識を持っていた。
 だが、東京の舞台ではその端役にすらつけてもらえずに、地方公演に回される。しかも、その地方公演すらままならない状況になる。
 肝心の歌舞伎の舞台に立てない。たまに声がかかると、苦手な営業のような仕事だ。引き受けた白虎の借金を返済する目途は全く立たない。白虎と半二郎の名跡を守ることなど夢のまた夢だ。
 人気のある頃に遊んだ仲間の荒風と洋子の惨状も目の当たりにした。
 そんな自分を守り、支えてくれるのは、徳次と弁天だけだ。
 だが、やはり不平不満をもらすことはない。気乗りはしないが、この映画の役には、後がない覚悟で臨む。

 喜久雄は、俊介のような御曹司ではない。追い詰められれば追い詰められるほど本領を発揮する。そして、窮地に立つ喜久雄を救う人物も現れる。
 清田監督の喜久雄起用の意図、異様な出演陣、過酷なロケ地で、何かが起こるに違いない。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第214回2017/8/8

 『太陽のカラヴァッジョ』という映画に喜久雄が出演を決めたことが、先ず語られている。この語り振りからは、清田監督から歌舞伎役者の芸を貶されても、喜久雄が映画出演を断念することはないだろう。さらに、予想すると、『太陽のカラヴァッジョ』での喜久雄の演技が中途半端な評価で終わることもない気がする。
 喜久雄は、この映画で今までにないような演技を見せると思う。

 荒風の引退と、赤城洋子の自殺未遂には人気商売の非情さが示されている。相撲取りにしろ女優にしろ実力をつけて、人気を得ないことには話にならない。人気があっても、力が落ちれば、たちまちその世界からはじき出される。また、人気が上がったからといって、それが本人の幸福に結びつくとは限らない。むしろ、人気という化け物のために個人の幸福を犠牲にしなければならないことが多い。
 喜久雄は、この二つの出来事を通して、人気商売の非情さ、歌舞伎役者として人気を得ることの表と裏をつくづくと感じたのかもしれない。
 どちらにしても、現状の歌舞伎でいい役がつくのを待って、芸の上達に励むだけでは先が望めないと感じはじめていると思う。

 今後のストーリーへの設定が細かくなされていると思うのだが、その方向性が私にはまだ見えてこない。それに、章の題「伽羅枕」に関連するものも見えてこない。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第213回2017/8/7
 
 赤城洋子が死んだと思っていたら、命は助かっていた。
 物語が大きく発展する要素が少しずつ姿を現す。前に予想したこと(206回感想) のほんの一部も当たっているかもしれない。
①喜久雄に歌舞伎以外の活動の話が出てきた。
②赤城洋子のことに関わって、辻村の名が出てきた。
③喜久雄が歌を口ずさむ場面が出てきた。

 喜久雄の八方塞がりの現状を救う登場人物として、今は徳次と弁天が物語の舞台に立っている。しかし、この二人だけではどうしようもないであろう。
 徳次と弁天が動くと、どうしても春江を思い浮かべてしまう。いきなり、俊介の再登場までいかなくても、春江が何かを引き出すのかもしれない。
 また、辻村が赤城洋子を救うとなれば、喜久雄は辻村に近づかざるを得ない。辻村が、喜久雄のために何かをすれば、その見返りを必ず求めるはずだ。赤城洋子を助けた見返りを、辻村に要求されれば、喜久雄は歌舞伎以外の舞台に立たざるを得なくなるだろう。
 辻村や春江だけでなく、物語を転換させる人物も現れるだろう。
 喜久雄の現状を打破する出来事は、歌舞伎の現状を打破する出来事にもつながるのかもしれない。
 先の展開に、期待が膨らむ。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第212回2017/8/6

 徳次が考えていたことは、喜久雄に映画出演をどうやって納得させるかだった。
 今までに何回も喜久雄が映画出演に魅力を感じていないことは出てきていた。しかし、それほど歌舞伎に魅せられているというのは、やはり特別なことだと思う。舞台役者であろうが、歌舞伎役者であろうが、映画出演に全く興味を示さない役者は、相当な変わり者といえるのではないか。

 喜久雄がいい役に付けないだけでなく、歌舞伎自体の人気の凋落。喜久雄の映画出演の可能性。赤城洋子の自殺。これらが、どう結びついていくのか、全く先が読めない。

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