カテゴリ: 新聞連載小説 吉田修一作 国宝 の感想

 「徳次」は、「喜久雄」よりも「俊介」よりも愛着を感じる登場人物だ。
 「徳次」は、仁侠の人として描かれていると思う。信義を重んじ、義のためには命を惜しまない。「徳次」は、「喜久雄」のためなら命を惜しまないといつも言い続けてきた。そして、それを「綾乃」を救う場面で、実行した。
 また、弱い立場の者を助けるということも実行していたからこそ、芸者衆やホステスさんたちに人気があったのであろう。「徳次」は、「喜久雄」に忠義を尽くしながらも、「俊介」にとっての「源吉」のように、完全に従うことはしなかった。
 従者でありながらも、主人から離れ、自分の道を歩んでいる。

 「徳次」は、どんな時代でもその価値を失わない人の生き方の典型として描かれていたと感じた。
 だからこそ、作者は、「白河公司」社長を「徳次」として描きながらも、歌舞伎座に向かう「男」を「徳次」とはついに明示しなかったのだと思う。

 「春江」と「市駒」と「彰子」、この三人の「喜久雄」を巡る関係を考えれば、互いに憎み合っても無理はない。
 それなのに、この三人は憎み合うどころか、互いに感謝し、尊敬し合っている。
 「俊介」から、丹波屋の御曹司の位置と役者のプライドを奪ったのは、「喜久雄」だ。たとえ、「俊介」がプライドを取り戻しても、憎しみとわだかまりは、そう簡単に消えるものではない。
 それなのに、「俊介」は、「白虎」を襲名するときには、「喜久雄」への感謝を言葉にしている。さらに、両足を失った「俊介」が信頼したのは、当の「喜久雄」だった。
 父を殺した張本人の告白を聞いた「喜久雄」が、目の前の「辻村」に対して動揺と憎悪を隠し切れなかったとしても、それはむしろ自然な反応だと思う。
 それなのに、死期を悟った「辻村」の告白を聞いた「喜久雄」は、平静で、「辻村」を許す言葉さえもらした。

 むすびつくことが難しい関係の人と人とを、むすびつけてしまう。それが、「喜久雄」だった。「喜久雄」がいなければ、「喜久雄」が、歌舞伎だけを求める人間でなければ、この小説の登場人物たちがむすびつくことはない。
 「喜久雄」は、あまたの観客に喜びを与えただけでなく、周囲の人と人をむすびつけていた。

 親を殺した張本人を前にして静かな気持ちでいることができる人が、「喜久雄」だから、読者もそこに共感してしまうと感じた。

 『国宝』の主人公は、歌舞伎の舞台に立つ魅力に取りつかれただけの人間だった。
 『国宝』の全編を通して、「喜久雄」は、空っぽの人間に描かれていると感じる。
  好きになった「春江」と「市駒」と「彰子」、認知した娘「綾乃」、綾乃が生んだ孫娘「喜重」、育ての母親「マツ」、実の父のように感じた「二代目半二郎」、散々世話になった「幸子」、共に修行し互いに競い合った「五代目白虎」、兄同然だった「徳次」、「喜久雄」が大切に思う人は多い。しかし、そのだれよりも大切したのが、歌舞伎の舞台に立つことだったのは明らかだ。
 家族であっても恩人であっても親友であっても、芸の上達ためには犠牲にする者だけが、稀代の役者になることができる。芸術を創り出す真の名人は、「喜久雄」が歩んだように、運命の命じるままに求めるもののためだけに生きなければならない。
 作者は、「喜久雄、三代目半二郎」という主人公を通して、至高の芸術を生み出す者の喜びと孤独と悲しみを描いていると感じる。
 「喜久雄」は、完璧な歌舞伎役者を求め続けただけで、他の人を思いやって、歌舞伎のことを二の次にすることは、まったくなかった。人を思いやるどころか、役作りに没頭すると、周囲の人のことなど考えもしなかった。
 その意味でも、「喜久雄」は、人間として空っぽだと感じる。

 ‥‥ただ、「喜久雄」という人間の存在が、「人間国宝」の歌舞伎役者というだけなのか、というとそうとも言い切れない‥‥

 悔しい思い、辛い経験、幸福でないことそれもとてつもなく幸福から遠いこと、それに負けなければ、人は、他の人々を幸福にできるものを生み出すことができる。
 作者は、こう書いていると感じる。

 「俊介」が父の代役に指名されていたならば、「俊介」の長男が健やかに育っていたならば、「俊介」が健康で長生きしたならば、どうであったろうか。「俊介」が順調な人生を歩んでいても、元々役者としての素質があり、しかも幼い頃からの芸の積み重ねがあるから、歌舞伎役者として一流になっていただろう。
 しかし、過去に例がなく、今後も出ないであろう役者にはならなかったと思う。「俊介、五代目花井白虎」は、稀代の女形「喜久雄」と競い合い、従来の歌舞伎の役柄に今までにない解釈を加え、他の役者には想像もできない工夫を凝らすことができる歌舞伎役者として、その生涯を終えた。「俊介」が二度とでないような役者になることができたのは、御曹司の座を「喜久雄」に奪われ、幼い長男を喪い、それらを乗り越えて舞台に復帰したのに、足を失うという度重なる逆境の中で舞台に立ち続けたからだと思う。
 足を失ってからの「俊介」の舞台は、過去の名優とは異なる感動を観客に与えたに違いない。

 「俊介」の場合だけでなく、それぞれの人物の悲しみ、逆境、不幸を作者は描いている。人が嫌悪する悲しみ、逆境、不幸を見つめる作者の眼は、そこに生きる人の強さと明るさに注がれている。

 好きな台詞。今や丹波屋の若女将となった春江と、人気のお笑い芸人弁天との会話。

「いや、ほんまやで。万が一でも俺がお偉いさんなんかになってもうたら、それこそ『天下の弁天、万引きで逮捕』とか『天下の弁天、痴漢の現行犯』とかな、一番みっともない姿晒(さら)して、この世界から堂々と干されたるわ」

「弁ちゃん、ほんま変わってへんわ」

「いや、ほんまやて。唯一、王様を笑えんのが芸人やで。それが王様になってどないすんねん」
(第287回)

 ここに、下積みの暮らしから這い上がった者の心意気が感じられる。
 昭和の敗戦後世代の私にとって、弁天の芸人としての信条が新鮮なのは、上昇志向を拒否しているからだ。
 弁天と同じ世代の私は、現実の社会で、学歴も仕事上の地位も収入も上を目指して暮らしてきた。それは、王様になりようがないのに、小さな小さな王様になろうとしていたともいえる。
 弁天のように芸人でなくても、庶民、市民という位置にいるなら、王様を笑う気持ちが大切だったと思う。
 政治体制がどのように変化しても、体制は人間社会が産み出すものだから、権力を握った者はお偉いさんであり、王様である。王様がいるからには、統治される大衆がいるということを忘れないで、ものごとを見るべきと思う。

 小説『国宝』には、何か所かの名台詞がある。私の好きな台詞を挙げていく。

 
初対面の「俊介」と、「喜久雄、徳次」の間が一触即発、乱闘騒ぎになりそうになった。そのとき、「幸子」が言う。

「あー、面倒くさい。どうせ、アンタら、すぐに仲良うなるんやさかい。いらんわ、そんな段取り、でもまあ、しゃーない。喧嘩するんやったら、今日明日でさっさと終わらしといて」(第67回)

 十五六歳の男の子の行動を正確に理解している。さらに、この少年たちのもめ事の解決方法も見事だ。 
 こんな気風のいい母親にはめったにあえない。
 

 「幸子」の台詞をもう一か所。
 喜久雄の子を生む市駒の世話をしている時の言葉。

男なんてどいつもこいつも甲斐性なしで意気地なしのアホばっかりや。でもな、生まれてくる子にはなんの罪もないねん」(160回)
 
 これは、『国宝』の女性登場人物に共通する思いだろう。男は、現実にないものを追い求める存在で、現実の生活では、「いつも甲斐性なしで意気地なしのアホばっかり」なのだ。

 これは、小説の中で具現化されている。そして、この「幸子」の啖呵は、現実世界でも真実だと思う。

①どんなときにもへこたれない。
②自分で自分の仕事を見つけて働く。
③切り替えが速く、一度決めたら迷わない。
④この人を支えようと決めたら、とことんその人の面倒をみる。
⑤愚痴や恨み言を言うことがほとんどない。
 小説『国宝』は、歌舞伎役者の物語だ。だから男の物語だ。ところが、女の物語でもあった。
 春江、マツ、幸子、市駒、彰子、この五人の女たちは、魅力に溢れる登場人物だ。そして、この五人に共通する特徴が上の五点だと思う。
①マツは、自分の屋敷を他人に売り、それだけでなく、持ち主の変わった屋敷で女中として働いて喜久雄に仕送りをし続けた。
②春江は、はじめて来た大阪で自分の才覚で稼ぎ始めた。市駒は、喜久雄の世話になりながらも、芸者として働き続けた。
③春江は、俊介に求められて、喜久雄から俊介にのりかえた。
④幸子は、俊介を差し置いて、二代目半二郎の代役を勤めた喜久雄の面倒をみた。
⑤彰子は、喜久雄にだまされたと知っても、泣き言を言わなかった。
 この五人、それに綾乃は、上の五点すべてをそれぞれがもっていると思う。
 夫と子に尽くすといっても、妻だから、母だから、尽くすというのではない。この人を支えようと決めたら、自分が納得できるまでやるということなのだ。また、世間の評判や、自分の体裁を気にする様子がない。人気歌舞伎役者の妻であることや、賞を得た役者の妻であることを誇るような気持ちはまったくないと思う。
 歌舞伎役者としての名を望み、賞や人気を得たいと思い、役者としての理想を追うのは、夫であり子である男たちだ。それを支えた女たちは、現実が突き付けてくる難題を解決し、現実を跳ね返して生きていた。
 ともに生きる女たちがいなければ、喜久雄も俊介も役者として、それよりも人として、人生から早々と脱落していたと思う。
 マツと幸子の充実した老後が描かれていたのも印象に残った。

 私は、『国宝』の主人公に、連載の読み始めから最後まで親しみも畏敬の念ももてなかった。しかし、最終回の主人公の背中には、思わず精一杯の拍手をした。
 その理由は、歌舞伎の舞台に打ち込み続けた喜久雄の姿に、心うたれたからだ。
 喜久雄は、大きな名跡を求めず、三代目半二郎のままだった。歌舞伎役者として後世にまで、讃えられることを望んでいたとは思えない。
 喜久雄は、人間国宝の認定を心から喜んだであろうか?喜ぶではあろうが、それを求めてきたことの到達点とはしなかったと思う。
 喜久雄は、彰子や、春江や、綾乃や、社長の竹野や、成功して戻ってきた徳次から、人間国宝を祝う言葉を聞き、満足するであろうか?満足はするであろうが、お祝い騒ぎに一区切りつけば、また新たな役に挑戦したと思う。
 どこまでいっても、完璧を求め続ければ、やはり、どこかで舞台の世界だけに生きるしかなくなると感じる。完璧を求めることをやめるには、役者をやめるしかない。役者をやめるということは、喜久雄にとっては、生きることをやめるということだ。

 世の中のほとんどの人々は、喜久雄の生き方はできない。同時に、多くの人々が、喜久雄の創り出すような芸術に陶酔する。人間とは、不思議な生き物だと思う。


 ※『国宝』全編についての感想は、まだこの後も書くつもりです。

 春江は、自分と母を辛い目に遭わせた育ての父である松野を、憎んだ。薬漬けになった俊介を救い出す際に、松野は春江の助けになった。しかし、そのときの恩を感じながらも、松野を憎む気持ちは決して消えなかった。
 綾乃は、父、喜久雄のスキャンダルのせいで幼いころに深く傷ついた。大人になった綾乃が大相撲の花形力士と華やかな結婚披露宴ができたのは、父の力によるものが大きかった。しかし、自分の家が火災となり、娘が重症の火傷を負ったときには、父に対する憎しみを抑えることができなかった。
 
 この小説の語り手がいう。「五十年ものあいだ、秘されてきたこの真実が、おそらく今の喜久雄を作り上げたのでございましょう。」(479回)「秘されてきたこの真実」とは、父殺しの真犯人が辻村だったということだ。
 喜久雄は、父を殺した相手への憎しみを抱き続けていた。
 『国宝』には、どんなに長い時間が経っても弱まることのない人の憎しみが描かれている。
 憎しみは描かれているが、弱音と嘆きは感じられない。それどころか、憎しみを生きる力に代えていく過程が描かれている。
 春江は、自分の息子の犠牲に松野をしようとしたが、踏みとどまった。綾乃は、父への憎しみを二度爆発させたが、父を深く理解した。
 そして、喜久雄は、辻村の告白を聞き、自分の人生の最も輝かしい場面を思い出した。その場面は、歌舞伎役者となる第一歩であり、最も心を許すことのできる徳次との楽しいときであった。
 憎しみから逃げ出すことなく、憎しみを跳ね返すことは、憎んでいた人を許すことにつながったと感じた。

↑このページのトップヘ