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新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 の感想と、読んだ本の感想を更新しています。

カテゴリ: 新聞連載小説 吉田修一作 国宝 の感想

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第496回2018/5/25

 命と引き換えに舞台に上る俊介を支え続けた。俊介亡き後は、一豊を支え、幸子の面倒を見、丹波屋を一人で切り盛りしてきた。一豊が交通事故の加害者となってからは、その荷は重さを増した。
 寂しさに浸り、悲しみを吐き出す暇はなかったはずだ。
 そして、今は、恥も外聞も脱ぎ捨てて、テレビのお笑い番組に出ている。これも、一豊に世間の注目を集めるためであろう。
 その春江が、涙を流す。それもこれも、喜久雄の芸ゆえと感じる。

 いくら呼んでも、いくら待っても、戻ってはくれないという歌詞に、自分が誰を思い重ねていたのか考えようとして、思わず慌て、それでも「いや、大丈夫」と春江が浮かべましたその顔は、(略)

 ここに春江の心の奥底を感じる。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第495回2018/5/24

 徳次に、優れた才能はなかった。徳次は、大部屋役者もこなすし、源さんのような付き人もやれた。だが、喜久雄のような芸事の才能も、弁天のような芸人としての才能もなかった。
 中国に渡った徳次が成功したのも、先見の明と商売の才能があったからではなさそうだ。運が味方し、時代の波に乗れた結果であった。
 徳次には、人生をかけてやり遂げようとするものがない。喜久雄や俊介のように本物の役者になるという信念や、春江のように世間を見返してやるという根性もない。食うことと遊ぶことと金儲けが好きなだけだと感じる。
 徳次には、自分がない、自我だとかアイデンティティーなど無縁だろう。

 徳次は、己を犠牲にして他人に尽くすことができる。だが、何か深い考えがあってそうしているのではない。ただ、自分が好きな人のためなら、どんな辛いことでもできるというだけなのだろう。そして、それは、特別な場合だけでなく、暮らしの中で、自然に周囲の人々にわかるようなものなのだろう。

 徳次のように生きる人は、今や皆無だ。徳次と逆の生き方は、私も含めて今の日本にはいくらでもいる。つまり、安定を求め、損得を考え、将来に備え、なによりも自己を大切にするような生き方だ。

 徳次に憧れる。空想だけでも、徳次のようになりたい。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第494回2018/5/23

 「お嬢へ天狗より」(489回)のときから、徳次にあえると思った。

 期待が裏切られるかもしれない恐さに、徳次が帰って来たに違いないと言い出せなかった。
 
 もう、大丈夫だ。
 徳次が帰ってきた。
 しかも、帰ってきたわけも、まだ歌舞伎座に到着していないわけも、すっきりとわかった。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第493回2018/5/22

 喜久雄の初舞台を描いた場面は、印象に残っている。

 初舞台のお役がついたと申しましても、栄御前について出る腰元の一人、御前のお供で手持ち灯籠を持って花道から舞台へ出ますと、当然台詞もなく、十五分ほど下手に座り、そのまま舞台をはけていくという役所でございます。
 ただ鳥屋から花道へ出た瞬間のなんとも言えぬ雰囲気だけははっきりと覚えておりまして、まさに雲の上を歩くが如く、何か無理にでもそこに言葉を当てはめるならば、幸福とでもいうのでありましょうか。
 しかし、そのあとの記憶が一切ございません。
(略)決められた通りに舞台をはけ、決められた通りの廊下を渡って大部屋の楽屋へ戻り、鏡台に向かったところで、やっと我に返ったようなものでございました。
 するとそこで、さっきまで自分がいた舞台の床の感触や、はっきりと一人一人が見えていた見物の顔、そして何よりも舞台に漂っていた香の甘い香りが蘇りまして、喜久雄は思わずそばにあったつい立の裏へ身を隠そうとしたのでございます。と言いますのも、まるで夢のなかで精を放ってしまったような、人目を憚るほどの恍惚感がそのときになってとつぜん襲ってきたのでございます。(第五章 スタア誕生 3 103回)

 舞台の魔力に魅せられた人は、プロ、アマを問わず少なくないと思う。しかし、これほどの強く深い感覚は、喜久雄ならではものだと感じさせられた。
 そして、この感覚を描写する文章は、うまい。
 喜久雄が舞台上で、今、繰り広げている芸の極致の描き方(493回)は、さらにうまい。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第492回2018/5/21 

 矢口建設の若社長夫妻は、歌舞伎を深く理解し、歌舞伎役者を支える本物のご贔屓筋として描かれていた。(352回感想)その夫妻が、紹介したい人と言うからには相当の人物であろう。

 竹野は、舞台の歓声とどよめきを聞いたが、まだ会場に入っていない。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第491回2018/5/20

 喜久雄の役者としての出発点は、大阪で俊介と一緒に稽古に励んでいたときだと思ってきた。
 歌舞伎役者の芸として、至高の域に達した阿古屋の舞台を読むと、さらにその先だと思わされる。
 それは、喜久雄が立花組の新年会で『積恋雪関扉』を披露したときなのであろう。そのときこそ、父が撃たれたときであり、そのときから徳次が喜久雄の傍にい続けた。
 父権五郎の死、ここから現在の究極の芸域までの道がはじまっていたように感じる。そして、綾乃はそのことを言い当てていた。

「嫌や!来んといて!これ以上、近寄らんといて!なんで?なあ、なんでなん?なんで、うちらばっかり酷い目に遭わなならへんの?なんでお父ちゃんばっかりエエ目みんの?お父ちゃんがエエ目みるたんびに、うちら不幸になるやんか?
 誰か不幸になるやんか!もう嫌や!もうこれ以上は嫌や!なあ、お父ちゃん、お願いや。うちから喜重を取らんといて!なあ、もうええやんか‥‥」(461回)


 こう叫んだ綾乃と、長崎の料亭の舞台で共に踊った徳次が、今、歌舞伎座に招かれている。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第490回2018/5/19

 喜久雄の故郷、長崎へと思いが導かれる。
 マツも権五郎も、そして、喜久雄も徳次も歌舞伎が好きだった。
 権五郎とマツは、貧しく生きるのに精いっぱいの日々を送っていたことが想像できる。厳しく苦しい暮らしから逃れる唯一の楽しみが歌舞伎だったのであろう。
 その歌舞伎の魅力に飲み込まれたのが、喜久雄であり、俊介であると思う。
 歌舞伎座が代を重ねて継承され、歌舞伎役者も代を重ねて継承される。二代目半二郎、四代目白虎から五代目白虎、三代目半二郎へと。そして、これからは、二代目半弥とさらにその子へと。

 徳次が戻って来ている兆候はない。徳次を恋しがっている喜久雄の兆候はある。
 綾乃と徳次が、その席にいるなら、舞台の上の喜久雄からは、はっきりと綾乃と徳次が見えるはずだ。
 
 阿古屋を演じる喜久雄本人も、それを観るであろう綾乃も、どこにいるかわからないままの徳次も、喜久雄の人間国宝認定をまだ知らないはずだ。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第489回2018/5/18

 五十年ものあいだ、秘されてきたこの真実が、おそらく今の喜久雄を作り上げたのでございましょう。しかし今その真実を知らされた喜久雄の目に映るのは、なぜか笑いかけてくる徳次の顔なのでございます。(479回)
 
 この後に、父の死の真相から父の死の幻想の世界へと、喜久雄は入ってしまう。
 徳次は、喜久雄にとって真実と幻想、正気と狂気をつなぐ人物なのか?
 徳次は戻ってきているのか?
 だれかが、どうしても綾乃に今日の舞台を観せたかったのは間違いないと思うのだが‥‥。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第488回2018/5/17

 これくらいのことでは、春江は動じない。
 幸子は、我が子を押しのけて二代目半二郎の代役を務めた喜久雄の面倒を見た。喜久雄のことを、この男さえいなければ、俊介が辛い目に遭わなくって済んだはずというのが、幸子の本心だと思う。そんな本心を抑えつけて、市駒の面倒までも見た。それは、丹波屋のためを思ったからだ。
 そんな幸子に、「自慢できる」と言わせた春江だけに、丹波屋のためにテレビで自ら醜態を晒し、それを悪く言われることなど、さほどのことでないはずだ。
 春江が思っていることは、どんなことをしても丹波屋に世間の注目を集めて、一豊、二代目半弥の人気を得ようとしているのだと思う。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第487回2018/5/16

 うまいものだ。どこをどう描けば、この竹野のような登場人物を生みだせるのか。
 竹野は、喜久雄に悪辣なことしていた。綾乃の解けることのなかった喜久雄への憎しみも、竹野の画策が原因になっていた。なのに、どこか期待させるものをもつ人物として竹野は描かれていた。

「でも、もうこれでいい。三代目よ、もうこれで十分だろ。おまえはよくやった。本当によくやったよ。この五十年、おまえが戦ってきたその姿、俺だけじゃない、みんな、忘れるもんか」

 あの竹野の胸のうちだけに、いっそう沁みてくる。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第485~486回2018/5/14~5/15

 歌舞伎役者として当代随一の位置に君臨する喜久雄が描かれている。そして、その姿が寂しく、痛ましい。

 歌舞伎女方の芸術上の価値。その女方としての喜久雄の高度な技法。さらに、歌舞伎役者としての喜久雄の来歴と、現在の芸の高さ。それらすべてが、最高のものとして認められた。だが、その喜ばしい喜久雄の人間国宝認定の通知書は、竹野の外出中に届き、誰も読むことなくデスクの上に置かれた。この状況は、何かを暗示していると思う。

 喜久雄にとって、今信頼できる人は彰子だと思う。その彰子に、喜久雄が役者をやめたいととれることを言った。これは、喜久雄の喜久雄としての本心だろう。
 ところが、彰子が問い返した相手は、喜久雄であって喜久雄ではなかった。

「やめたいんですか?」
 彰子が静かに問いかけたのは目の前にいる喜久雄ではなく、鏡に映った阿古屋でございます。(486回)

 
舞台上の喜久雄と喜久雄本人、言い換えるなら、役そのものの人格と役を演ずる喜久雄の人格との間に垣根がなくなっている。
 これは、正気を失ってしまった役者の精神状態なのか?それとも、歌舞伎の役者の究極の境地なのか?



 安宿で「菊さん」として最晩年を過ごした万菊は、役から逃れて万菊本人の心境に戻っていたように思う。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第482~484回2018/5/11~5/13

 マツ、幸子、春江、市駒、彰子、この小説は男の物語であると同時に女の物語だ。
 登場する男たちは、実生活では、どこか頼りなく、弱い。逆に、登場する女たちは、いずれもしっかりしていて、強い。弁天の女房のマコちゃんも明るく、そして、春江の思いを見抜いている。

 綾乃、綾乃の娘の喜重、一豊の妻の美緒、新しい世代の女たちも、祖母や母に負けない生き方をするだろうと感じさせる。

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第478~481回2018/5/6~5/10

 死を直前にした辻村の告白。
 告白を聴いたことと告白の中身は、事実だ。

 喜久雄が見ている光景(480回)。
 それは、きれいだが、幻だ。

「小父さん、もうよかよ。綾乃の言う通り、父親ば殺したんは、この俺かもしれん」(481回)
 

 ここには、事実と幻の世界をさ迷う喜久雄の心情がある。
 喜久雄は正気を失っているのかもしれない。しかし、この許しは、喜久雄の真実の言葉だと感じる。喜久雄は、親の敵を許した。

 喜久雄の目に色が戻ったのはそのときでございます。(481回)

 父権五郎の死の事実を知り、同時に、父権五郎の最期を幻の中で見た。
 喜久雄にとって、父権五郎の死の真相も、歌舞伎の世界に昇華されるのであろうか?

朝日新聞連載小説『国宝』吉田修一・作 束妹・画第476 477回2018/5/4~5/5

 時間は、すべてを飲み込むと強く感じた。
 俊介と一豊の同時襲名から二十年が経っていた。俊介は、亡き人となり、喜久雄と殴り合い、出奔していた俊介の復活のために、喜久雄を悪者にしたあの竹野が、三友の社長となっている。そして、喜久雄の現在の状態を心配している。

 小説の中だけではない。むしろ、現実の方が時間の経過に支配されているとつくづく思う。十代の頃に夢中になった小説を今読み返しても、あの時の感動は戻らない。そして、あの時から六十年が経っている。 
 十数年前に心配と不安に圧し潰される思いでいたことは、もう、過去のことでしかなくなっている。

 春江は、役者の女房だから、特別なのであろうか。そうとも思うし、そうでないとも思う。役者でなくても、人が何かを成し遂げるには、その仕事、役目のために全てを捧げなければならないことが、春江の姿を通して、描かれているように感じる。
 それが、多くの人々に夢や喜びをもたらす仕事であれば、普段の生活や当たり前の幸福は犠牲になるということなのだろう。

国宝 第十九章 錦鯉 第451(2018/4/8/)~475(5/3)回 感想

 喜久雄がたどり着いた境地がここなのか?
 見えないものを見、現実ではなく、かといって理想ともいえない景色の中にいる。

 狂人の目に見えるのが、もしも完璧な世界だとすれば、喜久雄はやっと求めていた世界に立っている。芝居だけに生きてきた男が、決して幕の下りぬ舞台に立っている。だとすれば、それでも正気に戻し、納得のいかぬ世界で生きろと、誰が喜久雄に言えるでしょうか。(第十九章 錦鯉 25 475回)

 狂人のままの喜久雄の姿を、読者として読み続けるのは、切な過ぎる。

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