カテゴリ: 新聞連載小説 中村文則作 『カード師』感想

魔女狩りについては、少しの知識はあった。
魔女狩りをテーマにしたドキュメント番組を見たこともある。
しかし、この手記は、今までの資料と全く違う視点から書かれている。
魔女を狩る方、魔女を実際に処刑する側の視点なのだ。
そうすると、魔女狩りの根拠のなさ、理不尽さがより浮かび上がる。

小説ならではの視点だ。

作者は、この小説にこういう部分を何回も挿入している。

それにしても、民衆は、虐げられれば虐げられるほどこういうより弱い存在を作り出してより残虐な行動をするものなのだ。
弱者がより弱い標的を作り出すことは、洋の東西と歴史の古今を問わない。
優位な民族による弱い民族の虐殺、戦争時の戦勝国民の敗戦国民への迫害、人種間の差別、どれも根拠も合理性もないことだ。

今現在、この新型コロナウィルス禍でも油断をすると、私は魔女を作り出しそうになる。
発生源とされる中国のある地域の人々は魔女ではない。
外出自粛の中、遊びに出る若者が魔女ではない。
休業要請の中、営業を続ける店が魔女ではない。
感染した人の家族は、魔女ではない。
感染を広めているのは、新型コロナウィルスそのものなのだ。

そのことを忘れないようにして、感染の拡大を防ぐためにできることをしよう、と思う。

〇前の手記 <手記 一三八六年 ヨーロッパ中部>について
また、手記が出て来たので、前の手記について思い出した。 

錬金術が盛んな時代と聞くと、科学が未発達で、怪しげなペテン師がはびこっていた時代だと思っていた。
しかし、「手記」を読まされると、それとは違う印象だった。
当時は、この世に存在する物を物質単位でとらえて、物質と物質の相互作用によって、何か貴重で新たな物質ができると考えられるようになり、それが、広く支配階級の人々が求めることであった様子が理解できる。
つまり、当時の金は、現代で言えば、新たな医薬品や画期的に有用な化学物質にもあてはまるのではないか、と感じた。
そういう時代の傾向の中で、「尊師」はまた、異なる考えの人であったとも感じる。
また、当時の下層市民が自分たちが、支配層から搾取され虐げられているのに、更により弱い人々を標的として理由のない残虐な行為の実行者になっていたことも指摘されている。

作者は、小説の筋とは直接の関係はないが読者に伝えたいことを、このようなかたちで書いているのであろうか、と感じる。

 新型コロナウィルスの感染が中国で始まったとの報道を見た時から、現在のような事態になる予想ができた。
 それは、ひとえに小説の力だ。パンデミックをテーマにした小説がおもしろくて何作か読んだ時期があった。それらは、現在の事態を的確に想像していた。
 このような小説の力に頼って、人生の幅を広げようと思う。賭博は危険なので決して近づかないこと、占いは非論理的なので当たるはずがないこと、カードに夢中になるのは不健全、こういう常識に今までは縛られている。常識に縛られずに面白味を味わってみたい。少なくとも、『カード師』を読むうちは。

 大金が動き続ける勝負をしながら、互いを探り合う。
 言葉の意味そのものは、嘘ばかり。
 そこにあるのは、互いに自分の利益だけをを守ろうとする心理だけだ。それなのに、この市井という女と「僕」は、どこかが通じ合っている。それは、感情の繊細さと感覚の鋭さだと思う。

 感情の細やかさは、何にしても魅力あるものだ。だから、この市井という女を憎むことが読者としてもできないのだ。


快楽を覚えた脳は反復を求める。

 その通りだ。ところが、こういう事実に目をつぶって過ごしていることが多い。また、努力による達成感と賭博に勝つことの達成感が、ごく近いものであるというのも同意できる。
 普段の暮らしの中では、努力と賭け事は対極に置かれ、疑うことなしに努力は善、賭け事は悪、としての物事をとらえてきた。
 それでは、偏った理解しか得られないと感じた。

 その時代の政府の命によって編まれた記録が、過去の事実を正確に伝えるわけではない。むしろ時の権力者によって歪められたものの方が多い。
 また、時の学者が記述した記録が正確かというとそうとばかりは言い切れない。学者は、研究の成果を記述するだけで実際にその時代の社会を生き抜いた人々の感覚から遊離している場合もある。
 もちろん、手記・私記の類が正確かというと、それも欠点は多い。手記・私記は、一個人の狭い範囲しか記録できない。だが、歴史の資料として多くの学説の根拠となる公的あるいは学問的な歴史資料と同じように、手記・私記もまた歴史上の価値を持つと思う。その意味で、この手記「一三八六年 ヨーロッパ中部 錬金術師の記録」はおおいに当時の事実を伝えていると思う。
 「尊師」は、世界中の人々が探究を競っていた物質を発見したのだと、この「手記」信じようと思う。しかし、それが「手記」であるがゆえに後世の人々は、この「手記」のこの物質の存在を信じなかったのだ。あるいは、信じた人がいても、その物質を再現することができなかったのであろう。
 そして、今、この「手記」を信じる人が現れた。それが主人公「僕」であり、「佐藤」とその背後の人だと思う。

 「佐藤」と「山本」の名前を、取り違えて読んでいた。
 「山本」の方が組織にいる男で、「僕」に「佐藤」を殺せと指示しているのだった。これで、腑に落ちなかったことが解消された。「佐藤」は、元々

「このような超自然的と称されるものは、昔は科学と同義だったがやがて科学から分かれた。でも私は、これらはまた科学と一つになると思っている。」

と考えるような男だったのだ。
 
 ところで、今回で意外なことが起きた。尊師と「私」の交流は続くと思って読んでいたが、尊師は、あっさりと処刑されてしまった。
 また、「僕」は、尊師と「私」の心の交流に注目してこの手記を読んでいると思ったが、手記を読み終わって出た「僕」の言葉が

 「この手記に出て来る、石釜の白いものは」言いながら、自分の言葉を止めようと思えなかった。「プリマ・マテリアだと思います。」(140回)

 主人公「僕」は、手記の中の錬金術やこの「プリマ・マテリア」のことに興味を示すとは予想できなかった。「僕」が、「佐藤」の前だからという理由だけでプリマ・マテリアを持ち出したのではなさそうだ。
 いずれにしても、この手記には真実が書かれているという立場に「佐藤」も「僕」もいることになる。

 尊師は、「私」の生き方を導く師として、登場したと感じた。
 その尊師は、錬金術師でありながら、錬金術の技術よりも人の心に注目し、自ら熱心に思索に没頭している姿を「私」に見せた。家族の愛にも友人との付き合いにも宗教にも幻滅していた「私」には、尊師の言動は、新鮮で価値あるものであった、と思う。
 「私」は、登場したこの尊師に教えを求めて、次々と問いかけ、尊師は「私」の問いかけに見事に答えてくれた。
 ところが、「私」の問いかけが、当時の街の中で起こっている数々の理不尽なことや、民衆の残酷な面に及ぶと、尊師の態度は、今までと異なるものとなる。
 尊師は、社会の問題に直面すると、それらには容易には、答えられなくなる。
 尊師のそのような変容を見ても、「私」は、尊師への尊敬の度を下げていない、と思う。
 ただ、尊師はそれまでの人生の師の位置から、共に悩む兄のような存在になったと思う。
 「私」には、慕い尊敬する親も兄弟も友人もいなかったが、信頼すべき兄のような人が現れたのだと、感じた。

 職人から尊師に、今までとは違う問いかけがあるのではないか、と思う。それは、武器や戦い、戦争や殺人に関わりそうな気がする。そこから、尊師の本質がより見えてきそうだ。

 一読して手記の中の「私」が、なぜこんな窯の中の「水銀」に惹きつけられたか分からなかった。
 だんだんに分かってきた「私」のような境遇、閉塞の状況の中で、必死に人生で価値あるものを探そうとすれば、怪しげな「水銀」がこの世の真理を含んだものになってしまうのであろう。
 
 若く多感な時期の「私」の境遇と、主人公の境遇とは完全に重なっている。

↑このページのトップヘ