カテゴリ: 要介護2

単に歩けなってはじめて、歩けたことの利点、幸福感に気づくというのとは違う感覚なのだ。
車いすを思うように動かせたとき、日差しを浴びたとき、夜明けと夕暮れの明暗を感じたとき、着替えをしてもらうとき、などなどがそれに当たる。
感じ方が変わった。
どうみてもプラスは少ないのに感覚はプラス志向なのだ。
今日も窓辺のひなたぼっこに幸福になった。

歩けるときの便利さを、失ってはじめて、その価値に気づく、ということなのだろう。
理屈はどうあれ、心地よさ、もっというと快感、さらにいうと、幸福感が増すことは、歓迎すべきことだ。
PCの前に座れることに幸福感を感じながら思っている。

身体的に不自由になって、心地よさ、幸福を感じることが増えた。
不思議だ。

着替えをしてもらう。手慣れているので素早い。
車いすで家の中をうろうろする。そんなときも余計なことを言わないで、好きにさせてくれる。
おやつに甘いものを準備してくれる。
こういうことがうれしいし、心地よい。
この心地よさは、車いすになってはじめて感じるものだ。

 昼寝から目が覚める。
   足元の窓からは午後の日差しが眩しいほどだ。
   
  日差しや窓からの眺めを楽しむのはいっとき、ここからは車いすに移るための算段になる。
ベッドの高さ、自分の位置、介助のあるなし、これに失敗すると、「惨事」になる。

介護を受ける者=私
介護をする側=カミさんとたくさんの人
介護は、この二つのことがあってはじめて成り立つ。

このわかりきったことをわからなかった。

カミさんが外出すると、私が留守番をするこになるが、私にその力はない。
カミさんの代りに、妹が来てくれた。
妹は昼間の時間帯なら、十分なことができる。

目が覚める。カミさんはまだ寝ている。
今日のご飯は、何だろう。
ベッドから車いすに無事に移れた。
カミさんが、着替えをしてくれる。
カミさんが、マッサージしてくれる。
カミさんが、外の様子を話してくれる。
ブログの更新を続けられる。

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