カテゴリ: 新聞連載小説・沢木耕太郎・『春に散る』の感想

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第479回2016/8/5

 藤原、星、佐瀬は、翔吾が言った「世界タイトルマッチが終わったら手術を受けます」に反対はしないだろう。
 すぐに手術を受けて今後は心配なくボクシングを続けられても、今回のように世界タイトルマッチに挑戦できるかどうかはわからない。翔吾にとって、一生に一度あるかどうかのチャンスが今回の試合なのだ。
 だからこそ、三人は翔吾の意思を大切にするし、彼を世界チャンピオンにしたいと思うだろう。
 広岡も、三人と同じように考えると思う。
 プロボクサーには、ケガや危険はつきものだ。それに、広岡自身も自分の病気の検査を、世界タイトルマッチが終わるまではしないと決めている。

 こう予想するのが、順当だ。しかし、翔吾が勝つにしろ負けるにしろ、世界タイトルマッチ後に二人とも入院というストーリーはおかしいような気がする。

 翔吾の眼、広岡の心臓、次の試合の前に何かがさらに起きそうだ。
 佳菜子が、どう動くのかも予想がつかない。佳菜子と翔吾のデートが意味をもつのではないか。
 藤原、星、佐瀬は同じように動くだろうと考えたが、佐瀬の発言がない。ここにも何かあるか。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第478回2016/8/4

 翔吾は、あっけないほど素直に眼の異常を認めた。
 佳菜子は、多くを察してはいなかった。
 広岡が、原因を中西とのスパーリングと考えるとは意外だった。
 スパーリングは、ヘッドギアをしてやるだろうし、特に翔吾にケガをさせないように佐瀬や広岡が気を付けなければならなかったはずだ。それなのに、ダメージを受けてしまっているらしい。
 中西というボクサーは、どんな役回りを担わされているのかわからなくなってきた。

 佳菜子だけでなく、他の四人も自分の責任だと言いそうだ。

 広岡の病気、翔吾の眼の異常、今後は医師、病院との関わりが出てきそうだ。
 
 翔吾が世界チャンピオンに挑戦できなくなるとしたら、別の挑戦者が誰になるのか、大塚や中西の可能性があるのか?


 佐瀬、藤原、星の三人は、気落ちするだろうなあ。翔吾本人もそうだが、この三人が大丈夫なのか、心配だ。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第477回2016/8/3

 困ったことになった時に、だれかに助けてもらった経験がある。
 困ったことになった時に、いろいろな人が助けてくれようとしたが、結局はうまくいかなかった経験もある。
 どちらの場合も、根本的には自分次第だとも言える。

 私の年齢になり、思い出すのは、助けにはならなかったが助けようとしてくれた人のことが多い。何かを教えてもらうという行為は、教えられたことそのものが役に立ったかどうかは本質ではない。


 アメリカでボクシングを諦めた広岡を救ったのはサンチェスの教えではなく、彼がくれた二十ドルだった。

 もし、翔吾がボクシングを諦めなければならないとすると、その時こそ、広岡は、翔吾に何かを教えなければならない。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第476回2016/8/2

 最初に挿絵が見えた。誰だ?このだらしない格好のヤツは?
 ――広岡だったとは!

 哀れな広岡を奮起させたのは、サンチェスのどんな言葉だったのか?
 ――二十ドルの現金だったとは!
 そして、ホテルの仕事を始めたきっかけが、その金で偶然泊まったホテルだったとは!

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第475回2016/8/1

 なぜ、広岡は、自分を見捨てたトレーナーのペドロ・サンチェスの故郷であるキューバを見ようと思い立ったのかがわかりそうだ。

一度でいいからキューバを見てみたかった。もう自分の残り時間は少ないのかもしれない。(第21回)

 ボクシングを諦めてかろうじて生活していた広岡に、元トレナーはどんな影響を与えたのか?


 佳菜子は、翔吾の眼の異常を感じていた。星と佐瀬が感じた彼女の「あの明るさの陰にどこか暗いものがある」は、そこに理由があるのだろう。


 小説冒頭の広岡の行動、翔吾について広岡が今までに感じてきた不幸や不安の予感、そしてこの時期に翔吾と二人きりになる佳菜子の意図、すべてが緻密に関連づいてきそうだ。

――これが翔吾を不幸にすることにはならないだろうか‥‥。(第419回)

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第474回2016/7/31

 前髪の件は今まで出てきた記憶がない。
 髪型については、広岡の髪型が若い頃から変わっていないことが書かれていた。令子は、40年ぶりの広岡を昔と変わらぬ髪型で見分けたとあった。
 そうすると、前髪のことで今まで語られていない思い出が出てくるのか。


(略)四人で後片付けを済ますと、(略)

 久しぶりに四人の共同生活の様子が描かれている。翔吾の世界選手権戦を目の前にしても、四人の生活に大きな変化はないようだ。四人で翔吾のトレーニングをして、四人で家事を分担している。
 四人は、佳菜子の生い立ちについてはわかったはずだ。星と佐瀬の会話はどこへ発展するのか?


 ストーリーは新しい方向に向かうが、前の章の内容で知りたいことが残っていてすっきりしない。
 大塚にどうして逆転勝利できたのかがわからないままだ。
 インサイドアッパーは警戒されていたが、ボディフックは無警戒だったからということだけなのか?それとも、ボディフックを打つ機会を我慢して待っていたのか?広岡が感じた翔吾の成長は、何が理由なのか?
 広岡は、大塚と現在の真拳ジムにどういう態度をとっているのか?翔吾は、真拳ジムの所属のままなのに、チャンプの家だけでトレーニングをしているようだ。次の試合に向けてのスパーリングはどうするのか?
 読者のいろいろな問いに答えていては、話は前に進まないであろう。しかし、これらが置き去りにされたままでは、ストーリーが雑になると感じる。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第473回2016/7/30

 他の人には一切干渉しなかった広岡の変化だ。子どもに取り越し苦労をする親のようだ。こういう気持ちは理解はできるが、その変わりぶりには違和感を感じる。


 予知能力や鋭い感覚を持つというのは、羨ましくもあるが、厄介でもある。佳菜子に劣らず、広岡の感覚の鋭さは何度も描かれている。だから、このデートに不安を抱く。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第472回2016/7/29

あとはもうジタバタせず、訪れた「そのとき」を静かに受け入れようと。

 こう思いたい。
 「そのとき」がいつ来るのかはわからない。だが、ある年齢を超えると完治しない病気があるのが当たり前になる。もしも、完璧な健康体であるとしても、平均寿命には確実に近づいている。
 広岡の年代の男には、現在は元気に過ごしているとしても、「そのとき」は近づいているのだ。
 老年に入り「そのとき」を具体的に意識したときには、上のように思いたいと思う。だが、なかなかそうはならないだろうとも思う。

 日本に戻ったときも、藤原たちと共同生活を始めたときも、広岡の思いは変わらなかったようだ。だから、日本では病院へも行っていなかった。
 ところが、その広岡の気持ちを変えたできごとがあったのだ。

 ――どうやら自分は、翔吾がどのようなボクサーになっていくかを見届けたいと望んでいるらしい‥‥。

 広岡は、他の三人と違って翔吾のトレーニングに積極的に関わることはなかった。翔吾とふたりだけで話した経験といえばチャンプを捜したときくらいのものだ。
 翔吾は、広岡に倒されたときから、彼を特別な存在として感じて、その感覚は日々増していったびょのであろう。
 広岡は、翔吾のボクサーとしての成長を見るうちに、気持ちが変化したのだ。そして、今や翔吾を「その存在のすべてを無条件に受け入れ」ている。
 広岡のこの望みは、生きることへの未練ではない。死に対する恐れでもない。
 死を具体的に意識しても、誰かに信頼され、誰かのために何かのためにすべきことがあるときに、こう思うことができるようになると感じる。

 世界チャンピオンになるのを見届けたいとはいっていないことに注目する。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第471回2016/7/28

 翔吾の、世界戦を前にして、広岡が倒れる。広岡の病状が知られる。
 チャンプの家のみんなは落胆し、翔吾は、戦意を失う。
 しかし、そのままで終わることはなかった。

 こんなストーリーを描く。


 大塚戦の前には、次のようなストーリーを描いた。

 翔吾は、この試合で眼を痛めて、その再発の恐れがあるので、ボクシングを続けることを医師から止められる。
 一時は、落胆する翔吾だが、佳菜子の看病と慰めによって立ち直る。
 佳菜子は、映画作りの勉強のために、広岡が手配してくれたアメリカへと旅立つ。
 翔吾もまたボクシング以外の生きがいを求めて、アメリカへ渡り、広岡のホテルでホテルマンとしての修行を始める。
 大塚は、世界戦に挑戦することとなるが、そのサポートにチャンプの家の四人も加わる。大塚が世界戦に備えたスパーリングの相手は、中西だ。
 その中西へ、広岡はアドバイスし、中西は本来のボクシングを取り戻し、大塚とは違う階級で世界を目指す階段を昇り始める。

 
そうはならなかった。

 今回も予想とは違う方向へ発展するだろう。
 だが、佳菜子が感じた不安、中西の再登場が、いわば読者の予想を混乱させるだけのものとは思えない。

朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第470回2016/7/27

 すごい逆転描写だ。
 実際に観戦していても、テレビ中継を観ていても、何があったかわからないだろう。文章表現でしか味わえない場面だ。

 キッドのキドニーについては、予想できなかった。逆転勝利は、期待し予想できた。
 予想がどうのこうのを超えた迫力だ。


絶望的な状況の中でひとり危険な海に乗り出し、ひとりで航路を見つけ、ひとりで嵐を乗り切ったからだ。

 この表現から、翔吾が、星ではなく広岡に許可を求めた理由がわかる。翔吾は、セコンドの三人の指示だけで動くボクサーではなくなっていたのだ。
 技術は、星から教えられたボディフックだったが、もうそれは翔吾独自のものになっている。
 広岡は直接的には翔吾にボクシングを教えていない。が、翔吾は、広岡から「ボクシング」を学んだのだ。


 大塚のようなスピードとテクニックの完璧なアウトボクシングをするボクサーは、それだけではプロのチャンピオンにはなれないのだ。


 沢木耕太郎のストーリー作りには魅了される。同時に、人間についての洞察にも。
 前回の、広岡が翔吾に感じた感覚は大切だ。

↑このページのトップヘ