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朝日新聞連載小説『国宝』『ディス・イズ・ザ・ディ』の毎回ごとの感想と、読んだ本の感想を更新しています。

カテゴリ: 夏目漱石 『それから』の感想

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石

 当時の資産家の子弟で、高等遊民と呼んでよい生活をしている人は現実の世間にいたであろう。しかし、「代助」のような精神をもつ人がいたであろうか。
 時代を問わず、支配階層や富裕層の人々が、より高い地位と権力、そして、より多い富を貪欲に求め続ける例はたくさん知られている。
 当時の資産家の子弟で、親の金で遊んでいられる人々は、より贅沢を求め、教養と実力がなくても世間的な地位や権力を欲しがる人が多かったと考えるのが自然だろう。

あらゆる神聖な労力は、みんな麵麭を離れてゐる。

 このように考え、自分が働かない根拠がここにあるとする「代助」のような高等遊民が他にいるだろうか。
 さらに、視点を変えるなら、この言葉は、金銭を得るための労働をしない人にしか言えない言葉でもある。どんなに金銭に無頓着な人であっても、仕事をして得た金で生活している人がこの言葉を言っても、それは理想論でしかない。
 したがって、金銭を目的とする労働はしないとする精神を行動に移すことができるのは、親の金を使うが贅沢を求めない高等遊民の「代助」だからこそ可能なのだと感じる。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第110回最終回2015/9/7

 連載を読み終えた。
 毎回の感想を続けることができた。

 働くことの意義を考えさせられた。
 結婚という社会的な夫婦関係と、自然な男女の関係との違いについて考えさせられた。
 世間の良識と道徳が、時代によって変化し、それは何の影響を受けるかについて気づかされた。

 最終回では、次のことを考えてみたくなった。
 人は、一人の人として尊重される存在である。同時に、人は、家族、社会、国家の一員として生きることに意義がある。人は、この両面を常に有している。
 この両面、すなわち、個としての面と集団を支える一人としての面をもちながら、そのふたつが衝突する場面がある。そして、そのどちらかを優先させなければならない場合がある。
 明治時代には、最終的に、家族の一員であり国家の一員であることを優先させることが求められたに違いない。
 そして、そのような時代の中で、「代助」は、個としての自己を守って生きようとしてもがいている。

御前はそれが自分の勝手だからよかろうが、御父さんやおれの、社会上の地位を思って見ろ。御前だって家族の名誉という観念は有っているだろう。

 これが、社会に認められた観念だ。そして、ここに疑問をもつ人は少なかったと思う。それは、現代でも通用すると思う。

父も兄も社会も人間も悉く敵であった。彼らは赫々たる炎火の裡に、二人を包んで焼き殺そうとしている。代助は無言のまま、三千代と抱き合って、この燄の風に早く己れを焼き尽くすのを、この上もない本望とした。

 夏目漱石は、「代助」と「三千代」に「本望」を遂げることをさせなかった。
 ここには、愛を至上なものとするよりも、個の存在の重さを主張している姿勢を感じる。

代助は、自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心した。

 進むべき方向も、進むための方法も微塵も見えない。が、先へ進もうとする意思を感じる。それは、社会を捨てた二人だけの逃避行ではないと思う。
 今までと異なる境遇と生き方であったとしても、「代助」は、明治という時代の「電車」に「乗って行こう」と「決心した。」のではないだろうか。


 

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第109回2015/9/4

  「代助」が価値を認めない物事に、価値をおくと「平岡」がとった行動になるのではないか。
 世間で幅を利かせる富と地位を得ることを目的にして、世間体を気にしながら生きるのが、「平岡」であろう。そういう考え方に立つと、「代助」の「父」に苦情を訴えることは当たり前になるのだろう。そして、それが、「代助」に打撃に与える最も効果的な方法だと考えつきそうだ。

 一人の人間を、個人として見るか、家と地域社会と国家の一員として見るか、その違いが浮かび上がってきたと感じた。

 「代助」は、彼と「三千代」との愛を、彼だけに責任のある問題としかとらえなかった。しかし、世の中の人々は、世間の一員であり、家の一人である「代助」が引き起こした破廉恥な事件ととらえることになるのだろう。 

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第108回2015/9/3

代助は拳を固めて、割れるほど平岡の門を敲かずにはいられなくなった。忽ち自分は平岡のものに指さえ触れる権利のない人間だという事に気が付いた。

 「代助」は、周囲の目をはばからないような行動をとらなかった。しかし、「三千代」の命が危ないかもしれないと思うと、自制心も限界に近づいている。
 かろうじて、強引な行動を止めているのものは、彼が否定している夫の権利というものだった。観念では否定していても、社会の秩序を破壊する行動はとらなかった。
 矛盾だと思う。だが、矛盾をはらみながら生きていくのが人間だとも思う。
 だからこそ、彼の苦しみが時代を隔てた読者に伝わってくるのだと感じた。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第107回2015/9/2

 恵まれた境遇と、才能。ないものと言えば世俗的な地位と自由になる金銭だけだ。愛する女性は、すべてを投げうって、その愛にこたえてくれている。それが、「代助」だ。
 以前の仕事に失敗し、その際の借金がある。今の職業と地位に満足していない。病気で子を亡くし、妻への愛は冷めた。世俗的な成功を求めて動き回っているが、うまくいかない。それが、「平岡」だ。
 そして、「代助」は、世渡りの術で、「平岡」に手も足もでない、と感じた。
 

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第106回2015/9/1

三千代さんは公然君の所有だ。けれども物件じゃない人間だから、心まで所有する事は誰にも出来ない。本人以外にどんなものが出て来たって、愛情の増減や方向を命令する訳には行かない。

 この回の注釈が大変に役に立つ。
 
 この小説の時代以降、100年以上かかって、上のような考え方が広く世間に認められるようになった。
 結婚は、本人同士の愛によって結ばれるものという考え方も同様であろう。
 既婚であろうと、女性の愛を、誰からも「命令する訳には行かない。」とする言葉は、当時としてはそれまでの考え方を逆転するものだったと想像できる。

 男女は平等、同権であり、男女共同参画社会をより進める、という考え方を、私はすでに認められたものとして教えられてきた。その考えに反対すると、非難されることを覚悟しなければならない時代に生きている。
 「代助」は、女性に参政権さえない時代の日本社会で、ここまで到達している。

 社会活動家、思想家が上のような主張を述べ始めるのは、日本ではもっと後の時代になってからであろう。
 そして、何よりも注目したいのは、活動家や思想家は概念が先行するが、漱石の小説の中では、感情に左右され、実際には考えた通りには動けない「人」が描かれている点である。それが、三年前の「代助」の行動に表れていたと思う。

君からの話を聞いた時、僕の未来を犠牲にしても、君の望みを叶えるのが、友達の本分だと思った。それが悪かった。
 

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第105回2015/8/31

 今はどうであれ、「平岡」は「大助」にとって同世代であり、かつては親友であった。「大助」が接する人物の中で、最も近い位置にいるということもできる。
 だからこそ、結果を斟酌せずに話をしたのかもしれない。
 だが、「平岡」は、ただ自己の名誉が深く傷つけられたということしか感じなかった。そして、法や社会的な制裁以上の方法で、名誉棄損を償うことを求めているようである。
 

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第104回2015/8/28
 
 「不倫」という言葉は、道徳にそむくというのが元々の意味のようだ。それが、道徳にそむいた男女の愛情という意味で使われるようになった。さらに、現代では、例えば、既婚の男女がそれぞれの結婚相手以外の異性との愛情関係などを意味するようになった。これは、元の意味が失われ、「不倫」ではなく「フリン」になっていると思う。
 現代の「フリン」は、道徳にそむいているという意識は薄く、結婚相手以外との男女関係の意味合いが濃くなっている。
 この小説の時代では、未婚の男性と既婚の女性との男女関係がどれほど強く道徳にそむいたこととされていたか、現代では容易には想像できない。

 作者は、「代助」と「三千代」のような男女関係が欧米ではどのように考えられていたかを理解していたと思われる。
 さらに、作者は、結婚相手以外の異性を愛してはならない、という道徳上の規範が何に由来するものであったかも見抜いていたのであろう。

 結婚した者同士は、一生互いを裏切ってはならない。これは、ある時代以降の日本の道徳的な規範といってよいだろう。
 愛し合った男女は、結婚するべきだ。これは道徳的な規範とはいえないと思う。また、このような考え方は明治時代には一般のものにはなっていなかった。互いに好きになって結婚したという夫婦ではない夫婦が、明治時代には、たくさんいたはずである。
 親同士あるいは家同士が勝手に決めて結婚が成立する。そして、そうやって成立した夫婦を、今度は世間の道徳で、結婚相手以外を好きになってならないと強く規制する。
 そう考えると、「代助」と世間のどちらが間違っているのか分からなくなる。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第103回2015/8/27

 相反することのどちらを選択するか、迷った場合に、いつまでもぐずぐずしないで、どこかで決断すべきだ。
 困難な何かを進めるには、到達すべき目標と、そこたどり着くための計画を立てるべきだ。
 これは私の価値観であり、私と同世代の良識でもあるだろう。

 「代助」は、どこまでも優柔不断だ。
 「父」の援助が途絶える道を決断したのに、兄嫁からの援助を喜んでいる。「三千代」の夫と会う算段をしたのに、どう話を進め、どんな決着をつけようという計画を持たない。
 そんな主人公に共感できなかった。
 
 しかし、今は違ってきた。

 迷っていないで、決断する。一度決断したら、その思いを曲げずに行動する。
 難しいことを成し遂げるには、明確な目標と計画を立てる。一度それを掲げたら、どんな障害があっても計画通りに進める。
 これは大切なことだと思う。

 だが、どんな場合もこれでよいのか。こういう考え方で、どんな時代でも人間関係は成り立つのか。

 どこまで考えても決断できないこともある。一度決めたことなのにまた迷うこともある。相手の出方次第でこちらが変わっていくこともある。むしろ、その方が、自然なのではないか。

 煮え切らない態度のままで、「平岡」に会うことを考えて、眠れないでいる「代助」に、人間味を感じる。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第102回2015/8/26 

 食うためには働かなくてはならない。働くためには、職業に就かなくてはならない。これは、当たり前のことだと思っていた。
 この小説を読むと、そこに疑問を感じ始めた。

 現代では、食うためには、食物を作るのではなく、それを買う金銭を得なければならない。金銭を得るには働かなくてはならない。働くには就職しなければならない。生活を維持するために働いている。だが、日々の場面では賃金をもらうために、つまりは金銭のために働くというのが実感だ。
 やりがいのある職業に就くべきだ。だが、時給が高くて楽な職種を探すのが、賢い職業選択だということが現実だ。
 
 日本が近代国家への道を歩み始めた頃から、働くことの実態がどんどん変化した。職に就いて働くことは、企業から求められることに、一定の時間を提供して賃金をもらうことになってしまった。そこには、食うために働いているという実感も、好きなことを職業にするという意識も希薄になった。
 現代では、ある職業に就く条件は、より高い賃金を得るためを第一とすることに疑いさえ持たない。自分に適した職業、やりがいのある職業というのは、副次的な条件になっているのが現実だと思う。
 改めて、そういうことに気づかされた。
 
 「代助」は、切羽詰まった状況でも、このような感覚とは無縁の位置にいる。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第101回2015/8/25

自分の所為に対しては、如何に面目なくっても、徳義上の責任を負うのが当然だとすれば

 「代助」は、ここまできても煮え切らない。「父」に対しては、断固として自分の意思を通したのに、「平岡」に対しては「徳義上の責任」を持ち出している。
 友人の妻を奪うという道徳に反する行為はするが、その行為を隠れてするのは、「徳義上」したくないというのである。
 コソコソしたくないというのは分かる気もするが、すっきりとは理解できない。


もう二、三日うちには最後の解決ができると思って

 「最後の解決」とは、どんなことだろうか。
 「平岡」が二人のことを認めると考えるほど楽観的ではないはずだ。「平岡」が怒って、「三千代」を離縁し、「代助」と絶交するというストーリーも考えられる。だが、それだけで済むだろうか。
 現代なら、法的な争いや慰謝料ということになる。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第100回2015/8/24

 「三千代」は「代助」を超えた感覚を持っていると思う。
 彼女は、生活費のこと、夫との関係、世間体、そういったことよりも、「代助」との愛に重きを置いて、今後生きて行くことに迷いがない。
 一方、「代助」は、そこまで突き抜けた感覚にはなれない。
 「三千代」との生活も、「平岡」との関係も、何らかの解決をしなければならないと思っている。
 
 「代助」は、男女の愛を至上のものとして、そのためには人を傷つけることも厭わないという位置には立てない人だと思う。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第99回2015/8/21

 愛した女性とは、結婚をしなければならない。
 他の人と結婚している女性を、愛してはならない。
 これに承服しない考え方を、この作品の中だけでなく、今までに何度も聞いている。考えにとどまらず、それを実践している人を見ることは、現代では珍しいことでなくなった。
 しかし、夏目漱石が描く「代助」は、現代の考え方とはどこか違う。形式的な慣習や世俗の道徳に重きを置かないで、本能のままの感性に従って生きるべきだという主張とも何かが違う。
 では、その違いは何か、と問われると、まだ分からない。

 どうやって「三千代」との生活をしていくかという経済面の心配だけで、「代助」が苦しんでいるのではないと感じる。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第98回2015/8/20
 
彼は第一の手段として、何か職業を求めなければならないと思った。けれども彼の頭の中には職業という文字があるだけで、職業その物は体を具えて現れて来なかった。彼は今日まで如何なる職業を想い浮かべて見ても、ただその上を上滑りに滑って行くだけで、中に踏み込んで内部から考える事は到底出来なかった。

 私は小学校の頃から将来の職業について考えた。考えさせられたというべきかもしれない。だが、昨今のように学校教育のカリキュラムの一部として教えられたのではない。家庭と学校の両方から、しつけの一部のように、子どもの頃から職業について考えるのが正しいと教えられていた。
 上級学校を選択する場合も、それによって職業選択の幅が変わることを前提として学校を選択した。大学の入試に失敗した場合の浪人の期間は、社会一般の公認だった。だが、高校や大学を卒業すると、就職しないという選択肢はなかった。
 日本の近代以降は、このような感覚と現実が多数派であり、良識的であっただろう。
 だから、「代助」のような感覚は異端と見なされる。
 だが、どの時代でも私のような感覚が通用するものだろうか。
 子どもの頃から将来の職業を考えて、学校は職業に就くための準備の場という感覚に疑いをもってもよいのではないか。
 昨今の日本では、私の世代が持っていたこのような常識は通用しなくなってきた。

 「代助」の身近に「門野」がいる。「門野」は、資産家の出ではなく、特別な教養も才能も持ち合わせていない。彼は、住と食の面倒をみてもらっているが、使用人としての賃金を得ているわけではなさそうだ。彼もまた職業に就いているとはいえない立場だ。
 その「門野」は、毎日機嫌良く暮らしているように見える。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第97回2015/8/19

 「父」は、この縁談が「父」にとって利益になることを正直に話した。また、自分の事業の状況が芳しくないことと、年のせいで弱ってきたことを、隠さずに話した。
 だが、我が子「代助」は、それを理解しながらも、「父」を助けようとはしなかった。「代助」がこの縁談についての不平不満をぶつけてくるのなら、まだ対処のしようもあるが、それもしない。
 「父」にとっての息子「代助」は、理解できない存在である。理解できないだけでなく、父としてどう接していけばよいのか、叱りつけるというよりは途方に暮れているように感じる。

 「代助」の方は、「父」をよく理解できる。だが、「父」が望むように動くことはもうないと心に決めている。

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