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新聞連載小説『ひこばえ』重松清・作 川上和生・画 の感想と、読んだ本の感想を更新しています。

カテゴリ: 夏目漱石 『それから』の感想

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第101回2015/8/25

自分の所為に対しては、如何に面目なくっても、徳義上の責任を負うのが当然だとすれば

 「代助」は、ここまできても煮え切らない。「父」に対しては、断固として自分の意思を通したのに、「平岡」に対しては「徳義上の責任」を持ち出している。
 友人の妻を奪うという道徳に反する行為はするが、その行為を隠れてするのは、「徳義上」したくないというのである。
 コソコソしたくないというのは分かる気もするが、すっきりとは理解できない。


もう二、三日うちには最後の解決ができると思って

 「最後の解決」とは、どんなことだろうか。
 「平岡」が二人のことを認めると考えるほど楽観的ではないはずだ。「平岡」が怒って、「三千代」を離縁し、「代助」と絶交するというストーリーも考えられる。だが、それだけで済むだろうか。
 現代なら、法的な争いや慰謝料ということになる。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第100回2015/8/24

 「三千代」は「代助」を超えた感覚を持っていると思う。
 彼女は、生活費のこと、夫との関係、世間体、そういったことよりも、「代助」との愛に重きを置いて、今後生きて行くことに迷いがない。
 一方、「代助」は、そこまで突き抜けた感覚にはなれない。
 「三千代」との生活も、「平岡」との関係も、何らかの解決をしなければならないと思っている。
 
 「代助」は、男女の愛を至上のものとして、そのためには人を傷つけることも厭わないという位置には立てない人だと思う。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第99回2015/8/21

 愛した女性とは、結婚をしなければならない。
 他の人と結婚している女性を、愛してはならない。
 これに承服しない考え方を、この作品の中だけでなく、今までに何度も聞いている。考えにとどまらず、それを実践している人を見ることは、現代では珍しいことでなくなった。
 しかし、夏目漱石が描く「代助」は、現代の考え方とはどこか違う。形式的な慣習や世俗の道徳に重きを置かないで、本能のままの感性に従って生きるべきだという主張とも何かが違う。
 では、その違いは何か、と問われると、まだ分からない。

 どうやって「三千代」との生活をしていくかという経済面の心配だけで、「代助」が苦しんでいるのではないと感じる。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第98回2015/8/20
 
彼は第一の手段として、何か職業を求めなければならないと思った。けれども彼の頭の中には職業という文字があるだけで、職業その物は体を具えて現れて来なかった。彼は今日まで如何なる職業を想い浮かべて見ても、ただその上を上滑りに滑って行くだけで、中に踏み込んで内部から考える事は到底出来なかった。

 私は小学校の頃から将来の職業について考えた。考えさせられたというべきかもしれない。だが、昨今のように学校教育のカリキュラムの一部として教えられたのではない。家庭と学校の両方から、しつけの一部のように、子どもの頃から職業について考えるのが正しいと教えられていた。
 上級学校を選択する場合も、それによって職業選択の幅が変わることを前提として学校を選択した。大学の入試に失敗した場合の浪人の期間は、社会一般の公認だった。だが、高校や大学を卒業すると、就職しないという選択肢はなかった。
 日本の近代以降は、このような感覚と現実が多数派であり、良識的であっただろう。
 だから、「代助」のような感覚は異端と見なされる。
 だが、どの時代でも私のような感覚が通用するものだろうか。
 子どもの頃から将来の職業を考えて、学校は職業に就くための準備の場という感覚に疑いをもってもよいのではないか。
 昨今の日本では、私の世代が持っていたこのような常識は通用しなくなってきた。

 「代助」の身近に「門野」がいる。「門野」は、資産家の出ではなく、特別な教養も才能も持ち合わせていない。彼は、住と食の面倒をみてもらっているが、使用人としての賃金を得ているわけではなさそうだ。彼もまた職業に就いているとはいえない立場だ。
 その「門野」は、毎日機嫌良く暮らしているように見える。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第97回2015/8/19

 「父」は、この縁談が「父」にとって利益になることを正直に話した。また、自分の事業の状況が芳しくないことと、年のせいで弱ってきたことを、隠さずに話した。
 だが、我が子「代助」は、それを理解しながらも、「父」を助けようとはしなかった。「代助」がこの縁談についての不平不満をぶつけてくるのなら、まだ対処のしようもあるが、それもしない。
 「父」にとっての息子「代助」は、理解できない存在である。理解できないだけでなく、父としてどう接していけばよいのか、叱りつけるというよりは途方に暮れているように感じる。

 「代助」の方は、「父」をよく理解できる。だが、「父」が望むように動くことはもうないと心に決めている。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第96回2015/8/18

 親子、父と息子の関係がくっきりと表現されている。子が成人し、どのような形であれ、父子の別離が近づくと父の老いが明らかになる。
 「父」と「代助」の決別を避けることはできない。だが、父子の関係を妥協によって続ける道もある。
 世間には、妥協で繕った関係を続ける場合も多いのだろうと思う。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第95回2015/8/14

 「三千代」との関係は、本心を打ち明け、彼女の覚悟も聞いた。「父」との関係も結着が付く見込みが立った。
 残るは、食うための金をどうやって得るかである。

 単純なようで、永遠の課題だと思う。
 根本的な問いにまで遡らなくても、いかに食うための欲求を満足させるか、いかに便利で安楽な生活を維持するかはどの時代でも、人に課せられている。必要最低限の生活では、人は満足できないし、豊かさを求めれば、きりがなくなる。
 そう考えると、今までの「代助」の生活ぶりは、非常にバランスがとれているのかもしれない。しかし、働かずに贅沢はし過ぎずにという生活を続けられるはずもない。

 原発が現在も将来も人に安心を与えないだけでなく、多くの犠牲者と被害者を出しているのは確かだ。だが、なるべく安価で現時点では手に入れやすい電力を、多くの企業と一般の人が求めているのも確かだ。
 物のために生きるのではないが、物がなければ快適に生きていけない。これは、明治も現代も変わりがないことを突きつけられたような気がする。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第94回2015/8/13

 「代助」の何かが変わってきている。今の所は何事も起きてはいない。だが、彼の決然とした様子が伝わって来る。
 今までの「代助」について考えてみると、精神と行動を二元的に捉えることが無意味に思える。
 表面では、彼は思索の人であって、行動は起こさないで生きているように描かれている。しかし、食うためだけの、儲けるためだけの行動をしないことは彼の思索の結果だ。また、世間の道徳と常識に則った行動をしないのは、彼の精神の具現だった。
 つまり、「代助」の行動と精神は、一致していたのだと思うようになった。
 
 その「代助」が、今まで以上に決然と行動を始めたと感じる。次々と決断し、迷うことなく行動している。だが、何かを画策しての動きではない。

彼はただ何時、何事にでも用意ありというだけであった。

 こういう「代助」に、以前は歯がゆさを感じた。しかし、今はそうは思わない。かえって、度量の広さと思考の深さを感じる。
 世渡りの上からは、追い込まれているのだろうが。
 

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第93回2015/8/12

 友人の妻に恋することはまずい。それを相手の女性に告げたり、世間に公表するのはもっとすべきではない。
 本心はどうであろうと、父の言う通りにしていれば、今後の生活に苦労することはない。結婚も形式的なものだと考えて、父や兄に従うふりをしていれば、今までの生活を続けることができる。
 「三千代」のことを切り捨てて、我慢して世間の道徳に添っていれば、自分の好きなように芸術を味わい、思索の時間を得ることができる。
 「代助」は、上のような道を選ばなかった。そして、今までにない「心の平和」を味わった。

 しかし、この選択は大きなリスクを伴うと、感じる。

朝日新聞連載小説『それから』夏目漱石第92回2015/8/11

 恋する男女の会話がここにあると感じた。
 「告白する。」「サプライズで結婚を申し込む。」などの場面に、恋愛を感じることが難しい。それは、私が古い人間だからだ。
 それにしても、平成時代の恋人同士よりも明治時代の恋する二人に親近感を持つというのは、どういうことなのだろうか。

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