どこか泥臭い
テレビで観た映画 『ブロンコ・ビリー』 監督クリント・イーストウッド
私が観たクリント・イーストウッドは、どの映画でもいつも同じ顔をしていると感じます。役柄によって表情や雰囲気が変わるということがありません。ウェスタンの賞金稼ぎも大都会の刑事も、見終わって残る印象はクリント・イーストウッドを観たというものです。
高倉健にも同じようなことを感じます。それだけ圧倒的な個性の持ち主なのでしょう。また、それで多くの人に愛され続けるのですから、スターとはいえ、人間にはとてつもない個性があるものです。
この『ブロンコ・ビリー』に、私はあまり感動しませんでした。ストーリーは、なんとなくボンヤリしたものでした。時代背景と主人公の行動は、チグハグな所を感じました。
ところが、主人公をリーダーとして信頼している今にもつぶれそうなサーカスの冴えないメンバーが魅力的なのです。そして時代遅れで、どこか間の抜けた所があるサーカスのスターを演じるクリント・イーストウッドに、温かさが感じられるのです。
彼は、どの作品でもスーパーマン的な存在です。そして、完全無欠なスーパーマンではなく、どこか泥臭さを感じさせる面を持ったヒーローだと思います。
同情すべきことなのに 『それから』 夏目漱石
理想 『それから』 夏目漱石
朝日新聞連載小説 『それから』 第七回 4月9日分
「大助」の考えが次のように出てきました。
いわゆる処世上の経験ほど愚(ぐ)なものはない
麵麭(パン)に関係した経験は、切実かもしれないが、要するに劣等だよ。麵麭(パン)を離れた贅沢な経験をしなくちゃ人間の甲斐(かい)はない。
私は最近こういうものの言い方を聞いたことがありませんでした。
人間は、物質面だけを求めて生きているわけではなく、心の豊かさがなければ生きている意味はない、というような考え方はなんとなく頭の中にはあります。でも、「大助」のように、それを実行に移しているわけではありません。
私の今の生活が、理想と美を求めることを何よりも大切とする考え方から遠ざかってしまったのでしょうか。
平成の今、大助のような人がいたらどう思われるでしょうか。時代が違うというだけでしょうか。
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親しい友だちが離れる理由 『それから』 夏目漱石
朝日新聞連載小説 『それから』 第六回 4月8日分
「大助」と「平岡」の関係は、次のようなものでした。
殊に学校を卒業して後、一年間というものは、殆(ほと)んど兄弟のように親しく往来した。
だが、「平岡」が職に就き、結婚してからは手紙のやりとりもだんだんに減ってきたとあります。
平岡の一身上に急激な変化のあったのは争うべからざる事実である。
以前の「大助」と「平岡」は、学校生活を共にして、しかも性格や行動の特徴も互いによくあったのでしょう。それが、距離的に時間的に離れてしまい、環境もずいぶんと変わってしまっています。そうすると、考え方も互いに変化してくることが描かれています。
友だちとして親しくなる要素として、お互いの性格や行動の仕方によると思いがちです。でも、その前にお互いが共有する時間や距離が近いということが土台になるのでしょう。
現実の生活でも、親しかった者同士なのに互いの考えが分からなくなってしまう場合が珍しくありません。そこには、共に過ごす時間と距離が離れてしまったことがいちばんの原因なのでしょう。
私のような年代の夫婦間と親子間でも、これはよく話題になります。例え、同じ家に住んでいても、共に過ごす時間の中身がなければ、それはもう取り返しのつかないことになるはずです。
感想がとんでもない方向に向かいましたが、人と人が疎遠になる様子を改めて示された感じです。
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