朝日新聞連載小説『春に散る』沢木耕太郎第407回2016/5/23

 佳菜子の特別な感覚をどう言えばよいのか迷っていた。
 映画館で映画に集中していない広岡を察し、子猫の気持ちを察し、それ以前に初対面の広岡の人柄を察している。こういう物事を見抜く感覚を彼女が持っていることは、以前から描かれている。

「佳菜子さんは本当のことしか言わないから」

 翔吾のこの言い方がピッタリ当てはまる気がする。佳菜子の感覚は、予知能力などというあやふやなものでなく、先のことであっても事実を感じ取れるのであろう。


 試合直前だから、四人は翔吾の戦いを心配して、そのことだけを考え、準備をしているはずだ。ところが、広岡が次のような行動を取った。

「お疲れさん、いい試合だった」
 控え室にあるモニターでその試合を見ていた広岡が、うなだれたまま放心したように立ち尽くしている挑戦者に声をかけた。


 敗れた挑戦者へのこの上ないねぎらいだ。